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2011年11月2日水曜日

日本周遊紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」

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 日本周遊紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」  .





山襞に苔むして一人寂しく眠る 「大久保石見守長安」の墓



人家も疎らになった山間の地をゆっくりと車を進めると山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に「大久保石見守長安」の墓地があった。

石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
単一のみの墓地なので寂しさは免れず、忘れられた様にヒッソリとしていた。 
しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう。 


長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。


大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。


大久保長安」は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。 
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。

甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。 

家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時に姓を「大久保」に改めている。 

関東250万石の内、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務采配の一切を任されている。 


1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に再び石見奉行、9月には美濃奉行など、錚々(そうそう;多くのもののなかで傑出している)たる略歴に任じられている。 

同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。



長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期で1601~1603年の間とされ、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「」の増産に務めた。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、脳卒中のために死去している。

享年69歳であった。


長安の事柄は、ここで終わらないのである・・!!。

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に、不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあっている。 

更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。 

だが、長安が不正蓄財を行っていたという証拠や見解は殆ど無く、これは近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・?。 

又、彼の財力と権勢を警戒した徳川家は、粛清や不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。 


一説には、長安は家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人に相応しいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われ、ある種、謀反の疑いを懸けられたともされてるが・・?。


一般的評判として、権勢をかさにした長安の立居振る舞いは、死後の風評を含めて決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見などは無いとされる。 

このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に、ただ一人で静かに眠っているのである。


尚、大久保石見守の墓は「大安寺跡」に建てられている。
大安寺は慶長10年(1605年)、大久保長安が自分の氏名から2文字をとって建立した寺で、墓はいわゆる逆修墓(ぎゃくしゅぼ)の墓とされている。

逆修とは、「生前に自分の法名をつけて墓を建立すると大きな功徳を得られる」との当時の謂れにちなんで建立した墓である。 
ただし、現存する墓石(五輪塔)やその横の石碑(紀功碑)は寛政6年(1794年)のもので、おそらく長安自身が建てた逆襲墓は家康の仕置き直後には当然ながら壊されていた。

紀功碑(きこうひ;功績を記した碑の碑文)を起草したのは、石見銀山第39代代官となった「菅谷弥五郎」であった。
銀山が凋落の一途をたどる時勢のなか、代官・菅谷弥五郎は石見銀山の再興再来を願い、碑文をしたためたのだろう。
寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上がある。



次回は、 銀鉱山・「間歩





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