google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」

2011年9月28日水曜日

日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」

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 日本周遊紀行(173) 下関 「壇ノ浦」   、




壇ノ浦(関門海峡)での合戦模様「義経像」



関門海峡・長門の浦・「壇ノ浦」で最後の決戦が行われる・・! 、

夕べは、帰館してから泊り客で、旅の途中でもある若者達と暫し談笑した。 
特に、小生もそうだが北海道へは日数をかけて巡遊したらしく、その話で多いに盛り上がり、特に利尻や礼文島には感銘を受け、知床でヒグマに会った話や「カムイワッカの湯」には三人とも拍手、歓声で納得しあったものである。  

海産干物のつまみにウイスキーがどんどん減ってゆく、若者二人はいずれも酒豪らしく平然としている。 旅人は、こう在りたいし、これも旅の楽しみである。 
初めの口約束どおりPM11時には就寝した。
実は小生はこの時点では、利尻や礼文島へは未だ訪れてはいなかったが、若者たちの話に刺激を受け、直後の年に訪ねている。 

北海道道北・「利尻・礼文」旅行記 URL 
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm 




翌朝、小生は6時前には起きて、若者二人の旅の安全を祈ってこっそり退出した。
気が付くと盛んに船の汽笛というか霧笛が聞こえてくる、早朝の出口である前庭に出てみると納得であった。 海峡はおろか辺り一面は濃いガスに覆われている。かなりの濃霧であって、航路の安全を確認するため盛んに霧笛を鳴らしているのである。

先ず、昨日素通りした公園へ立ち寄った。 
あの壇ノ浦の源平合戦で一大決戦を行なった両勇姿、源義経と平知盛の動的な像が華やかに据えられている。 
石碑には「壇ノ浦古戦場跡」とあり、同じく、「安徳天皇入水の碑」があって、刻字に「長門本平家物語所収の二位尼(平清盛の妻)辞世の歌」として・・、

『 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 
          波の下にも みやこありとは
 』

と刻まれている。

「みもすそ(御裳)川」は、関門道の下関I・Cから火の口山、海岸に至る道の脇を一部暗渠(あんきょ)となって流れる小さな谷川で、海峡に達している。 
途中の町並みは「みもすそ町」といい、海岸公園も「みもすそ公園」と称している。


海峡は本州・下関と九州・門司間の関門海峡をいい、地域的には大瀬戸、早鞆瀬戸(はやとものせと)とも言う。 
壇ノ浦とはこの海峡の一部をいい、高速道の下関側に「壇ノ浦P・A」が在るように、この町一帯を壇之浦町ともいい、この町の海峡に面している一帯を「壇ノ浦」と称しているようである。 
勿論、通常、「壇ノ浦」というと古戦場、源平の最後の合戦地を表していることには論を待たない。


源平の戦いの中の一つ「壇ノ浦の戦い」は、数ある合戦の中でのただ一度の海戦であった。
ところで平安期、平氏・平家台頭の要因になったのは、世に言う「保元・平治の乱」からである。 
保元元年、皇室・朝廷内部で崇徳上皇と後白河天皇および摂関家(摂政関白の藤原両家・頼長と忠通の争い)に起った内乱は、後白河側に付いた平清盛・源義朝の軍を主力とした戦いで勝利を収める。 
元々、武力をもって朝廷貴族を守るべき立場の武家が、この乱での政界進出の大きな契機となったといわれる。 
特に、平清盛はこの時、武力によって一瞬ともいえる数時間でこの戦の勝利を治めたという。

続いては平治元年、今度は藤原両家を含む、平清盛と源義朝の武家同士の勢力の争いで、所謂、最初の源平合戦は清盛の活躍で平氏が勝ちを治め、源義朝は尾張で最後をとげる。このとき、幼少だった頼朝、義経は命乞いで助かっているが・・・!、

以降、清盛は武家である軍事力を背景に都で警察権を握り、これを地方、全国にまで拡大してゆくことになる。 
併せて清盛は、これまで貴族中心だった朝廷政治への介入を果たし、政治の中枢へと勢力を拡大してゆく。 
清盛の身内は摂関家、天皇家との政略的婚姻を進めてゆき、次第に高位高官を占めるようになり、自らも経済援助などで天皇家へ接近しつつ、遂に最高役職である貴族最高官位・「従一位太政大臣」にまで昇りつめる。 今で言う内閣総理大臣である。 
清盛の娘・徳子は後白河法皇の皇子・高倉天皇と結婚、後に安徳天皇をもうけることになる。

政界をほぼ掌握し、驕れる平家は次第に傲慢になりつつあった。 
子弟の貴官は専横な振舞が多くなり、この頃から「平家にあらずんば非人なり」と叫ばれ、市中には密偵を放ち、平家の悪口を言う者は捕われ、上流にあっては貴族への暴力へとエスカレートするようになる。

見かねた後白河法皇は、次第に清盛の意向から離れるようになり、遂に、法皇は高貴高官等による平家追討の為の所謂、「鹿ヶ谷の謀議」と言われる密議へも参画した。 
鹿ヶ谷は、現在の京都市左京区大文字山の西麓にある地名で、この地で1177年、俊寛僧(後白河法皇の近臣、法勝寺執行)、藤原成親、僧・西光(藤原師光・平治の乱後に出家、後白河法皇の近臣)らが会合して平家を滅ぼそうと談合した山荘で、その跡を談合谷ともいう。 

しかし、これは平家の密偵により事前に発覚し、各官は捕らわれの身となって終わる。 
一説には出撃直前、清盛の西八条邸を多田行綱(源行綱、後白河法皇の近臣)が訪れて、平氏打倒の謀議を密告したともされている。

絶頂期にある清盛は、1180年、安徳天皇を奉じて一時、新都を福原(今の神戸市兵庫区)に置いたが、公家たちの反対が多く半年で京都に復帰している。
一門の繁栄は、後継長子・重盛の若死を契機に、やがて内部の結束が乱れはじめ、清盛の求心力も次第に弱まる。 

この時期、清盛は宮中における不平貴族の諸氏を乾坤一擲の大粛清を強引に行っている。 清盛の軍事クーデターとも言われる。 
それから間もなく清盛は64歳で死去し、この頃より源氏が胎動が始めるようになる。 

あの時期、幼少のため命乞いして助かった頼朝、義経が、いよいよ源氏の白旗の幟を揚げることになる。
その後、平清盛没後(1118~1181)4年にして、平氏の嫡流はここ関門海峡・長門壇ノ浦で最後の決戦が行われるのである。


引き続き「壇ノ浦



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