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2011年9月20日火曜日

日本周遊紀行(171) 宇佐 「八幡宮と東大寺」

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 日本周遊紀行(171) 宇佐 「八幡宮と東大寺」   ,




宇佐神宮と大和・東大寺は「神仏習合」の元祖であった・・、

時は下って、奈良朝における宇佐神宮創建(725年)の頃、45代天皇に即位した聖武天皇は奈良東大寺の大仏建立を計画する。 

だがその当時、国内では金の産出量が少なく、仏像を飾る金が不足していた。 
この時を待っていたかのように宇佐の神は、「必ず黄金を国内で産出できる」という御神託を発し、何と、その言葉どおり陸奥の国から大量の黄金が発掘されたという。 
その光り輝く黄金900両を献上した人物が「百済王」といい、神託が下されてから僅か1年余後のことであった。

待望の金が産出されたと聞き、宮廷歌人で当時の陸奥国の長官であった大伴家持(おおとも・やかもち)は大喜びで天皇を讃え・・、

『 すめろぎの 御世栄えんと 東なる
              みちのく山に 黄金花咲く
 』 
と詠んでいる。


この時期、日本に亡命した百済王族の子孫である「百済王敬福」(くだらおうきょうふく)は、官僚社会を比較的順当に勤め上げ、46歳の年(743年)に陸奥守(現在の知事)に任じらている。 

半島国家の盛衰が渡来系の人たちの動きを活発にし、日本国内での影響力も増したと言われている。 特に5,6世紀から生活の基盤を日本に移した渡来人は、その財力を背景に次第に朝廷内部にも存在感を持った勢力として認識されるようになっている。

6世紀の仏教文化の渡来以来、秦氏の稲荷神社創建に象徴されるような、日本古来の神(カミサマ)との神仏融合にも成功し、恐らく遷都や寺院建築といった事業に際しては率先して財貨・人材を提供して協力を惜しまなかったのではないかといわれる。 


黄金900両を献上した百済王を天皇は大いに喜び讃え、位(従三位)を与え河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。 
しかし、彼・敬福は、実入りの多い国司などを歴任したにもかかわらず家には余財などは無く、豪放磊落な豪傑肌の人物であったようで、聖武天皇が遇したのもこのような彼の性格を愛したことによるもので、決して黄金を献上したことのみではないともいう。 

又、天皇より大僧正の位を授かった「行基」が大仏鋳造を大いに支援しているが、行基も同様、百済系の渡来氏族ともいわれる。


順序として「宇佐神の託宣」⇒「黄金の発見」⇒「東大寺大仏の完成」⇒「九州と都との連携の強化」と成り、渡来人の先見性と技術力、財力で当時の日本の象徴的大寺院・東大寺が完成したのである。 

後に全国各地に「国分寺」、「国分尼寺」が造られるきっかけとなり、行基は全国に勧進行脚に出かけた中、各地に寺院を開山し、土木事業にも精を出し、連日、汗水流してブルドーザーのように働いたという。 

又、各地で温泉を発見したり、整備したりしていて、行基にまつわる温泉も多い。「疲れた人夫たちをくつろがせるには、温泉が一番じゃ」と・・。


こうして、宇佐神宮と東大寺が親密連携するようになって、「神仏習合」(神と仏という相異なる性格を持つものが平和に共存する、同時に信仰されているということで、以降の“神仏習合”の元祖ともいわれる)と言う形をなし、宇佐宮は益々強力になってゆく。 

やがて「八幡大菩薩」と称され、一般社会に浸透し、「はちまん」さまと呼ばれることが多い神様になる。

元々の呼び名は「やはた」様であった。 その意味で「や・はた」とすると、「」は『強い・多い・大きい』を意味する強調言葉だとされ、最も分かりやすい解釈が渡来系の代表選手・秦氏の「はた」ではないかという見方ができる。 
末広がりで強い「や・八」に、秦がひらめく「幡」で「八幡」から、やがて「はちまん」と呼ぶようになったとされている。 
又、はだ(秦)の呼び名は、朝鮮語のパダ(海)によるとする説もある。


秦氏は朝鮮半島から渡来した氏族で秦始皇帝の末裔(まつえい:血筋、子孫)と称し、わが国文化、産業の基層を造ったすごい氏族なのである。
本拠は京都・太秦(うずまさ;京都撮影所で有名)の他、周辺各地に点在している。



宇佐神社は、東大寺の守護神として奈良・手向山に鎮座(手向山神社)し、他の神社とは異なり積極的に仏教との習合を深めた神とされる。 
仏教側でもこれを喜び仏様の守り神と崇めて『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ』の尊称を奉ったのである。 

そして時代が下り、平安時代になると、平安京の裏鬼門(南西の方角)を護るため京都・男山に、応神天皇を主祭神として石清水八幡宮が勧請され、こちらも朝廷の篤い尊崇を受けている。


第56代清和天皇の直系、清和源氏の祖といわれる源満仲(みつなか)の頃より「八幡宮」を崇め、源義家(みなもと・よしいえ)は京都・岩清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と呼ばれるようになる。 
ここから八幡さまが源氏の氏神、武門の守護神として祀られるようになった。

鎌倉・鶴岡八幡宮は、1063年源頼義、義家公が奥州を平定する際、源氏の氏神として出陣の時に合わして、京都の石清水八幡宮を鎌倉・由比ヶ浜辺にお祀りした(元八幡)のが始まりで、その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が、1180年、鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を、現在の地に遷宮し、1192年に鎌倉幕府の宗社となっている。 

宇佐神宮(宇佐八幡宮)、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)、鎌倉・鶴岡八幡宮は、日本三大八幡宮と言われる由縁である。 
主祭神は八幡大神を祭神とする応神天皇で、相神に神功皇后、比売大神としている。



宇佐神宮境内東の最奥部に大尾山があり山腹に「護皇神社」がある。 和気清麿公を祭神として鎮座されている社である。 
世に「宇佐八幡神託事件」、「道鏡事件」と言うのがあった。 
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が“宇佐八幡の御神託である”と嘘をついて帝位に即こうとするが、一方、和気清麿はこれを抑えるべく宇佐八幡に赴き、正規の御神託を仰ぎ、道鏡の意思を退けて「万世一系の天皇制、国体擁護」を説くという。 
ここでは前項、(備前・和気町)に記載したので省略する。

岡山県和気町・「和気清麿と道鏡事件」
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html



写真:宇佐神宮の神域を画す寄藻川(よりもがわ)に架かる屋根付きで朱塗りの優美な橋・「呉橋


帰路、西参道を通ってみた、寄藻川に架かる「呉橋」がある。
勿論、通常この橋は扉が閉鎖されていて、一般の我々は通ることは出来ない。 
川幅いっぱいに宮社風の建物が弧を描いて施してあり、屋根は茅葺で(檜皮・・?)外観は朱漆が鮮やかであるが、歳月を経てやや色落ちしている。 
しかし、たかが小さな川に架かる橋としては豪奢そのものの造りであり、すぐ下流には一般人通行用の神橋も架かっている。 

天皇及び勅使参詣に関しては先に記したが、この西参道を勅使街道と称した。 
呉橋はその宮人・勅使、天皇達のやんごとなき(貴人)方々の専用通路であるが、後期の一時期は一般の人もこの橋を渡って参詣したこともあるという。 

鎌倉期の1301年(正安3年)に、勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成が、

『 影見れば 月も南に 寄藻川
             くるるに橋を 渡る宮人
 』
という歌を詠んでいる。


従って、鎌倉時代にはすでに橋が架けられていて、室町時代には既に屋根付の橋であったとされる。 当時、小倉、中津を領した細川家によって造営され、現在の橋は昭和初年の国費による造営という。

呉橋という名の由来もはっきりしないが、昔、呉の国(中国)の人が掛けたとも云われ、この名が付いたとあるが、その名から古い時代に渡来人によって架けられたとする伝承もある。 尤も、宇佐神宮そのものが大陸の影響を受けていたところをみると、この呉橋の造りそのものが如何にも大陸・中国風、唐風なのである。


次回は、「中津



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