google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-10-31

2010年11月6日土曜日

日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「外宮・豊受大神宮」

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日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「外宮・豊受大神宮」



伊勢神宮・外宮御正殿


伊勢神宮・外宮参道略図



次に、神饌の宮とされる伊勢神宮・外宮へ参ります

夕刻せまる内宮の参拝と見学を厳かのうちに終えて辞した。
神宮会館から猿田彦神社を左折して伊勢の市街方面へ向かう。 市街地(伊勢市役所)の一角に「外宮」は在った。 
ほぼ道路に面したところに駐車場があり、ここからすぐに表参道に出た。  

掘川(防火用の水を保全)の流れの火除橋(ひよけばし)を渡ると、手水舎と第一の鳥居がある。 左奥に森に囲まれた清美な「勾玉池・まがたまいけ」が見渡せる。
勾玉は古代の装身用の玉で、独特の形でヒスイやメノウを材料とし、形は縄文時代の動物の犬歯に似せたものという、池は勾玉を形どったものである。 
この池では時期になると湖面に舞台を設えて「観月会」の行事などもあるという。 

手水舎で手と口を清めて、続いて二の鳥居くぐると右横にある入母屋造の建物は「外宮神楽殿」、「御神札授与所」である。 
内宮と同様、神楽舞の奏上や豊受大神宮の御神札・御守・暦などの授与を取り扱っている。 また内宮同様、御遷宮の造営資金の献金の受付もしている。 

九丈殿を過ぎると外宮の御正殿が在った。
正式には「豊受大御神(トヨウケノオオカミ)」といって、御饌(みけ)、つまり神々に奉る食物をつかさどる神である。 
このことから衣食住、広くは産業の守護神としてあがめられている。


皇大神宮・内宮より遅れて、雄略天皇の御代に丹波の国(天橋立付近)から、この伊勢の国の当地に鎮座されたとする。 
天照大神が、伊勢神宮に鎮座してから482年後の雄略天皇22年(478年)に、雄略天皇は夢で天照大神の神託を聞いたという。

 「 わたしは高天原にいて、探し求めていた場所に鎮まることができた。
 しかし、私だけではとても不安であり、食事も安心してとることができないので、丹波国 の比治の真奈井にいる等由気大神(トヨウケノオオカミ)を、私の御饌都神として私の許  へ呼び寄せてほしい
。 」

天皇は驚いて、豊受大神を丹波国の比治の真奈井原から伊勢の山田ヶ原に遷して、社殿を建てて祀り始めた。 
またそれ以来、御饌殿を建て毎日朝夕に御饌をお供えするようになった。
こらが外宮の起源を語ると同時に「日別大御饌祭」の起源にもなっているという。

日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)とは、毎日朝夕の二度、内宮の天照大御神、外宮の豊受大神宮、両宮の相殿神(あいどのかみ)、更に、十四の別宮の神々に食事を奉る祭りである。 
外宮がここに移された1500年前から一日も休むことなく、永々と続けられてきている。 
大御饌祭の食材は自給自足が原則である。

神々の食事の基本は水と御飯と塩、これに四季折々の野菜・果物、魚、海草などで構成される。
食器は土器で、神宮の施設で土器調整所で作られ、1回使用すると土に返される。 
忌火屋殿はいわば調理室、前夜から斉館にこもって身を清めた神職が、火きり具(火をおこすための道具、発火具)を使って火を起こし調理する。
この火きり具は静岡・登呂遺跡で発見されたのと同じ仕組みだといわれる。

そして調理された食事は、正宮をかこむ御垣の内側に建つ御饌殿(みけでん)に運ばれ、神々に供せられる。
内宮が伊勢の地に創建された二千年前から、儀式は形を変えず受け継がれ、社殿は20年毎に行われる式年遷宮によって新たに建て替えられ、忠実にその姿が継承されているのである。
伊勢神宮が日本の澪標(みおつくし:みちしるべ・・)たる理由であろう・・!。

社殿は「唯一神明造」と内宮と同形ながら、鰹木や千木が若干相違しているという。
隣に空地があり「古殿地」と称して内宮と同じ、やはり20年毎の「式年遷宮」を執り行なう。


参拝を済まして帰り道は、「北御門口参道」からの退出し、こちらにも火除橋がかかっていた。
因みに外宮の別宮は「多賀宮」、「風宮」、「土宮」は境内神域に鎮座するが、もう一つの別宮「月夜見宮」は天照大御神の「弟神」をお祭りしている。 
「社宮」は市のほぼ中央の繁華街に位置し、外宮の北御門から真っすぐ月夜見宮に至る道が延びている。この参道は、神様の通う道であると信じられ、現在もこの道は地元の人々に「神路通り」と呼ばれ、親しまれてるという。

次回は、二見ヶ浦の「夫婦岩



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2010年11月5日金曜日

日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「参拝意義と倭姫命」

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 日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「参拝意義と倭姫命」 



その昔、西行も、芭蕉も神宮の神を参拝した。 

正殿は、白絹の帳(とばり)の向こうに鎮座して、その姿を直接見ることは出来ない。 
何故なのであろうか・・?、一般には『 畏れ多く、神様は見るものではなく、感じるもの 』と言われる。

西行が伊勢神宮を参拝したとき詠んだ歌で・・、 


『 何ごとの おはしますかは 知らねども 
                  かたじけなさに 涙こぼるる 
』 

又、西行の歌を見た芭蕉も・・、
 
『 何の木の 花とは知らず 匂いかな 

と合わせ詠んでいる。

神とは目には見えないもであるが、有難いものである 」と言っているのである。 

神への参拝は、己の心を写す鏡でもある、とそう思いたい。
そういえば、伊勢神宮の御神体は八咫鏡(やたのかがみ)であった。

これは三種の神器(さんしゅのじんぎ)の一つで、天孫降臨の時に天照大神から授けられたとする鏡であり、「三種」のなかでも最も重要かつ神聖な宝物であるという。
皇祖神である「天照大神の分身」ともされていて、皇室を守護する御神体という意味をももつ。

「鏡」は、装飾された鏡が古代の古墳から出土しているように、霊性を有すると考えられ、「魔境」ともいわれた。 鏡が神話に初めて登場するのは古事記でいう「天の岩戸事件」の時で、岩戸に閉じこもった天照大神が、そっと外の宴を覗いた時に天照大神の顔を写した鏡がこの八咫鏡であった。

この「八咫鏡」は世上を照らす太陽神であり、太陽神は即ち天照大神である・・、

農耕民族である日本人にとっては太陽神・天照大神が天地人民にあまねく与えられる日光は、何よりも大切で敬うものであるとする基本的考え方がある。
いかにして神々をなだめ天候を穏やかにして作物の実りを豊かにするかという問題は、支配者層から一般人民まで身分に関係なく最大の関心事だったはずである。 

作物の出来・不出来は生死に直結する大問題であるから、我々現代人が思っている以上に古代人にとって太陽神・天照大神の存在は大きく、その子孫である天皇にたいする畏敬と期待は大きかったと言えるのでは。

日本の歴代天皇が継承している三種の宝物としている中で、剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草薙剣(くさなぎのつるぎ)と同義、玉は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)といわれる。 「三種の神器」については後の機会に詳しく述べる予定です。


倭姫命(ヤマトヒメノミコト)について、 

内宮北方およそ2kmの地(内宮別宮・宇治山田駅近く御幸道路に面す)に内宮・別宮として「倭姫命」が祭られている。
「日本書紀」や「倭姫命世記」(やまとひめのみことのせいき)の記載によると、姫は都のあった大和(やまと=現在の奈良県の辺り)を出発して伊賀、近江、美濃を経て伊勢の国へ巡幸したとある。

当時、国内では疫病がはやり、人々は不安におののいていた。 
占いの結果「天照大御神をおまつりする場所を皇居の外に移すほかない」と決心し 、垂仁天皇の時に、皇女の倭姫命が天照大御神の鎮座の地(宮地)を求めるために、重大な決意のもと巡幸の旅に出る。 

一行は美濃の国まで北上し、更に伊勢湾沿いに南下する。 
現在、これらの巡幸足跡地には美濃の国の天神神社をはじめ、倭姫命にまつわる十数の宮・神社が祀られている。
各地を巡った後に、倭姫命は伊勢の国に到着する。

海の幸、山の幸に恵まれ、稲作の盛んな国であるこの地「うまし国」に、天照大御神も「 この神風の伊勢の国は常世之浪の重浪(しきなみ)よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。 」(日本書記)と託宣し、ここに鎮座することをお決めになったとされる。

それ以来神宮では、日本人の主食である米にまつわるお祭りを数多く行い、稲作文化を大切にしてきた。 
そこから生まれた神宮の精神は、日々の食事に感謝する気持ちとして、今も我々の暮らしの中にあるといわれる。
 
次に伊勢神宮・「外宮」



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2010年11月4日木曜日

日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「式年遷宮」

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 日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「式年遷宮」 



御正殿の左隣りにある「次期遷宮敷地」(古殿地)



「神宮式年遷宮」とは如何なるものか・・?

御正殿にて参拝済ませ、そのまま進行方向へ進むと広大な空敷地が広がっている。
手前左隅に白塗りの立て看板があって、そこには「平成25年・第六十二回・次期遷宮敷地」と記載されてあった。

この敷地は、伊勢神宮では20年ごとに内宮・外宮の御正殿を始め、全ての建物・鳥居・宇治橋を建て替え、御神宝(調度品の品々)も造り替えるという次期遷宮のための敷地であった。 通称、古殿地、西の御式地とも言われている。
式年遷宮」とは、御神体と新神殿に関わる全ての物が遷ることである。 つまり、御神殿の新築・引越しである。


これは、第一に社殿の清浄さを保つためであるが、この式年遷宮が20年ごとというのはその他にも非常に深い意味があるようで、これには「伝統技術や儀式、その作法や芸能を守り、継承するための20年」でもある。

各分野にて専門的なものを継承するということは、1世代に数回の引継ぎを行わなければならない。
例えば人間一生を通して若年、中核時代そして熟年の各時代があるように、これは大まかに20代、40代、60代ともいえる。
この20年毎の繰り返し、引渡しが一流の技能が承継でき、1300年間の伝統の技を担保できるのであろう。
宮大工や木細工や機織り、絹作り、料理方法などなど、内部の装飾や小物もすべて作り直し、多種多様な伝統技術を絶やさず次の世代に伝えることができるわけである。


式年遷宮の生物学的意義・・?

又、最近は「式年遷宮」を行う他の理由として、生物学的に立った新たな学説も有るといわれる。
生物寿命」の観点から、生物の本質は「永遠の生を目指す」ことであろうが、しかし、生命・人体は構造物で長期使用にあたっては、いずれは壊れる。
つまり、ある時点でそれを捨て、新しく作り直す必要があり、それが次世代への継承であり、つまりは「子供、子孫をつくる」ことだという。 

同じ構造物の建築についても同様で、「20年毎に建て替える」ことにより、千年以上経った現在も昔通りに存在する伊勢神宮こそ現実的で優れたやりかたとされ、生物が代々永遠を目指す方法と一致するのである。 

我々の先祖は、実に確かな生命感を持っていた」と敬意を表したいのである。

日本の古い信仰に、「古き神が一度死に、新しき神が誕生する」という考えが有り、20年経ってボロボロになった神殿同様に、祀られている神も廃れてゆく、ここで新しく建て替え、神威を蘇らせる、という考え方である。


遷宮された社殿と遺跡との相違

奈良時代に創建された法隆寺の金堂や五重塔は、1300年以上風雪に耐えている。 確かに、日本には当時から木造建築の技術があった。 
では何故、ほぼ同時期から始まった社宮における「式年遷宮」という趣旨が必要性があったのか・・?、その実際の起因は何か・・?。


かって、文明史家のトインビー博士が神宮を見て、ギリシヤやイタリヤの神殿古跡に似ていると言ったが、日本の史学者は『 欧州の神殿は廃墟なのに対して、神宮は生きている 』と反論したという。 

神社側の公式見解は特に無いというが、ただ、「延喜式」に記載されていることを忠実に行っているだけである・・と実に淡々としたもんである。 

延喜式」とは奈良後期から平安期に養老律令の法典で、禁中(宮中)の年中儀式や制度を定めたもの。 
この中の神社、神宮の項で『大神(伊勢神宮)の宮は二十年に一度、正殿、宝殿および下幣殿を造り替えよ。すべて新材を採りて造れ』とあるらしく、そこに取って付けたような理由などは無いという。 
宮司は、「 形に従い、繰り返すことが大切なのです、その後に、おのずと判ってくるものです 」といっている。 


尚、「遷宮」について 様々な起縁が言われているが、その一つに天武天皇(7世紀の天皇:以前は大海人皇子といい壬申の乱で勝利して即位)以前には天皇が変わるごとに宮を代えていたとされるが、恒久的な宮(藤原京:奈良飛鳥地方の日本史上最初の都城)が建設されることになり、宮代わりが無くなったので、その意義を神宮の遷宮に託したともいわれる。


遷宮の歴史と用材

遷宮挙行は7世紀に始まり、「延喜式」の命ずるままに存続してゆくが、実際は室町期に勃発した「応仁の乱」で120年の空白が生じ、又、昭和期の終戦後の混乱の中でも4年遅れで挙行したという。
この昭和の混乱の時期、報道によって知らされた国民は、混乱と貧困をはねのけ多大な募金が寄せられ、実施に当てられたといわれる。
 
檜(ひ)の香も高い社殿が完成するまでには、ほぼ10年の歳月を要するといわれる。
その間、御料木を伐り始めるに際してのお祭りを始め、造営の安全をお祈りするお祭りや旧神領民(周辺氏子や一般人)がこぞって参加する行事などが数多く行われる。
この制度は日本各地の有力神社で古来行なわれているが、現在も周期的に行なっているのは伊勢神宮と大阪の住吉大社のみという。 
いずれも古式に則って行なわれる、神宮最大の祭事である。


この式年遷宮の歴史は西暦690年の持統天皇の御代に始まり、戦国時代などの中断期を除き、1993年(平成5年)の第61回式年遷宮まで連綿として、20年ごと(一部延期などあり)に続けられてきている。

現在では(2005年)、すでに第62回神宮式年遷宮の各行事が進行中で、過ぐる平成16年春、天皇(遷宮の主宰者)から正式に許可が下りて「遷宮準備委員会」も結成され、その答申に基づいて本格的な準備が進められているという。 
そして来る年の2013年(平成25年)には、正遷宮(神体の渡御)が次期「古殿地」へ移転が予定されている。

遷宮にあたっては凡そ1万本以上の檜材が必要とされているが、旧殿に使用された殆どの用材は神宮内や摂社・末社をはじめ全国の神社の造営に再利用されている。 
一例として、既に宇治橋の項で述べた。

次回は、神宮の「参拝意義と倭姫命」



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2010年11月3日水曜日

日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「内宮・正殿」

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 日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「内宮・正殿」 


伊勢神宮:「内宮正殿」
千木の先端が水平に切られていることは「女神」を表す。 通常、正殿:神殿内部は写真を撮ったり、見ることはできない)



境内最奥に神宮本殿が鎮座していて、正しくは「御正殿」(ごしょうでん)という

大きな石で造られた石段があり、老若男女、子供からお年寄りまで、また外国人を含め、毎日大勢の人々がこの石段を登って参拝している。 

小生も「これから先の旅の道中安全」と通常、仏神に祈願している文言を唱える。 
作法は、「二礼二拍手一礼」・・!が一般的であるが、御正殿の正式な参拝の仕方は古来は和式礼法に基づいて、座して礼をとるのが正しいらしい。
そして、祈願は己一望もさることながら森羅万象、今在る自分の有難みを自然に感謝することとしている。 


正面に白い幕が下がっているので直接に御正殿内を見ることはできないが、向こうにそびえている御正殿の萱ぶき屋根や、まっすぐに伸びている棟持ち柱(遷宮の時、宇治橋の内側の鳥居になる)を見ることはできる。

伊勢神宮の正式名称は皇大神宮(内宮)といい、八百万(やおよろず)の神の総代、そして皇室の祖神である「天照大御神」(アマテラスオオカミ:女神)が祀られている。 


天照大御神のお引越し・・!、
元々は「大和の国」の皇居に祭られていたものを、東方の日・出ずる地として何処か鎮かな場所に移そうと思い、垂仁天皇(すいにんてんのう・神武天皇から数えて第11代目の天皇)が、神風に護られた伊勢の国に移したものである。

伊勢は山の幸、海の幸にも恵まれた清らかな国であり、皇女(天皇の娘)の「倭姫命」に天照大神の祭祀を託したことから、この国に遷宮され「伊勢神宮」を興したと伝えられる。 

二千年も前のことである。


本社殿は「唯一神明造」(ゆいいつしんめいずくり)といわれる様式で、「唯一・・」と付くのは、神宮だけに用いられる呼称である。  
建物は、全て直線式の檜の素木(しらき)で造られ、屋根は切り妻造りの萱で葺かれ、「中央平入」形式《建物の平側(屋根、棟に対して直角方向)に出入口を設ける形式》で、土台は高床式になっている。 
これは弥生期における稲作文化が発達した頃、稲を収める倉庫の形式から由来しているともいう。 


屋根の頂きは「鰹木」(かつおぎ)といっての棟木の上に横に並べて装飾してあり、両隅は「千木」(ちぎ)といって破風の先端が延びてV状に交叉した木で飾ってある。 
尚、千木は、古代様式の住居では、屋根を支えるための大切な構造材であった。  
しかし、現在では神社の千木は装飾的な意味合いが強く、千本の先端が水平に切られている場合は「女神」を祀っていることを示し、垂直に切られている場合は「男神」を祀っていることを示していると一般的にいわれている。 

無論、内宮・正殿は女神の天照大神を祀っている事から、千本の先端は水平に切られている。
左右に地面から社殿を支える「棟持柱」(むねもちはしら)が直立している。
全体が美的で清楚、簡素にして荘厳な感じがし、日本でも最も古い形式の社殿であるという。


正殿の様式美は、「究極的、極致的形式

著名なドイツの建築家、ブルーノ・タウト氏が「究極的、極致的形式」と絶賛したという。
余計だが、小宅の神棚には、全く同形式の極小社が安置してある。


日本人の祭事の根本がここにある

神宮の祭事は、日本人が生きてゆく為の最も基本的な、特に食についての御祭りが多く執り行われる。
祭事は、一日単位のものと、一年単位のものとを合わせると実に1600種を数えるとも云われる。

一日の祭りは主として神宮の食事で、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と呼ばれ、神様の食事は1日2回で、外宮の御饌殿で神様にお食事を奉る。  
メニューは御飯三盛・御水・御塩と海の物、山の物で、野菜は全て神宮の御園(みその)で栽培されてる。 また米や塩も特別に造らるという。


一年のお祭りは、各月の決められた日に目的に応じて行うことになっている。
中でも月次祭(つきなみさい)は6月と12月に行われ、10月の神嘗祭(かんなめさい)とともに三節祭(さんせつさい)と呼ばれる重要な祭りである。

月次祭は本来毎月行われるべきものを略したもので、古代から毎年陰暦6月・12月の11日に神祇官で行われ、当日の夜は天皇が神饌を供え、神と共食したという。 
神嘗祭はその年の初穂を神々に捧げるという意味があり、年間の中でも最重要の祭りである。
神々の正月は神嘗祭」とも言われ、祭り器具など出来る限り新調する。 

又、新嘗祭は天皇が新穀を神々にお供えし、自らも召し上がるのに関連した祭りである。
かつては、その年の新米は神嘗祭で神様がお召し上がり、天皇が新嘗祭で召し上がるまでは、一般の人々は新米を食べられなかったと言われる。
 
伊勢神宮は、平安期における「延喜式神名帳」(平安初期の年中儀式や制度を決めた中で、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式の巻9、巻10の神名式をいい、宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載したもの)以降においても特別扱いの「別格」とされ、明治期には政府によって国家神道の頂点に決められていた。
現在では、政教分離の神道である神社本庁の本宗(ほんそう)とされて、正式名称は「神宮」としている。
ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼び、単に神宮と記した場合には伊勢神宮のことになるという。

何時の時代においても共通するのは、「伊勢神宮」は社格が存在せず、全ての神社の頂点とされている。 
従って、有名な神社も地域の神社も全てが神宮に連なっているということになる。

ただ基本的な神社の起因からすれば、「神宮」は大和朝廷一族を祭った神社、つまり天皇の祖神を祀った神社ということであるが、例えば出雲大社や諏訪大社は大和朝廷が滅ぼした部族の神を鎮めるための神社であるとも云われてもいる・・?。


参拝者も時代の変遷とともに変化するが、神武天皇が即位したとされる年を元年とする「神武天皇即位紀元(皇紀)2600年」(1940年・昭和15年)には約800万人を記録し、現在では約600万人前後になっていることは先に記したが・・、
尚、内宮対外宮の参拝者数比率は7:3程度になっているという。


伊勢に参らば〇〇もかけよ、〇〇かけなば片参り

古来、伊勢神宮に参拝すれば、こちらも参らねばならないと俗謡に詠われている。 
〇〇は、伊勢神宮との関係が深い寺社や神社で多賀大社(内宮神の御両親;滋賀県多賀町)、多度大社(内宮神の御子;三重県桑名市多度町)、熊野三山等々を言っているようである。



さて、御正殿より左の方角へ向かうと同社と並んで大きな敷地が広がり、そこには縄張りが敷かれている。
左の隅に白地の木看板が掲げてあった。

『 平成25年、第62回式年遷宮御敷地(しきねんせんぐうみしきち) 』・・と。

式年遷宮」については次回へ



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2010年11月1日月曜日

日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「参道界隈」

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日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「参道界隈」


参道入り口に立つ「宇治橋


伊勢神宮の参道周辺の紹介・・!、

内宮の入口部にあたる宇治橋近辺は平日の夕刻迫る頃とあって、さすがに参拝客の出入も少ないように見受けられるが、心を平静に保ちながら宇治橋を渡る。
ここからは神宮の神域である、弧状の板橋の欄干に神々しさがただよう、前後には巨大な鳥居が二基、俗世と神域の境界を示しているようである。その姿は感動的ですらあり、身も心も正して清浄な宮域に入る心構えの大切さを感じさせる。

この宇治橋は20年毎に、かけ替えられるという。(式年遷宮・・後述)

宇治橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立ってるが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿(しょうでん)の棟持柱(むなもちばしら・大黒柱・支柱)が用いられ、外側の鳥居は外宮のものが当てられているといい、橋同様、共に20年毎に建て替えられる。 

この鳥居がさらに20年経つと、内側の鳥居は、鈴鹿峠のふもとの「関の追分」へ、外側の鳥居は桑名の「七里の渡」の鳥居となり、ともに正殿の棟持柱となって以来、60年のお勤めを果たすという。 
風雨に晒されること60年(鳥居の姿となって、正しくは40年)、幾ら管理が行き届いているとはいえ、改めて木製の強靭さに舌を巻くのである。

左右を松や杉等の緑樹に囲まれ、玉砂利を敷き詰めた参道は「神苑」と呼ぶそうである。 
参道に立ち並ぶ鉾杉(ほこすぎ)は神域の森厳さを保ち、またモミ、マツ、ヒノキ、カシ、シイ、クス、サカキなどが繁り、暖帯北部の代表的な林相を成している。



伊勢神宮・内宮の参道界隈(神宮提供)


日除橋」を渡ると右手に「手水舎」があって、参拝前に手を清め、口をすすぐ。 
清め」は、本来は川や海の中に入って禊(みそぎ)をし、心身を清めていた行いであるが、これを簡略化したものであるという。
手水の所作についても作法があり、まず柄杓に水を汲んで左右の手を洗う、次に左の掌に水を受けて口をすすぐ。 
柄杓から直接口をつけるのは不作法とされる。 

神宮・内宮の場合は、五十鈴川の「御手洗場」で口と手を清めるのが普通である。 
「一の鳥居」をくぐると独特で有名な「五十鈴川と御手洗場(みたらし)」に来た、残念なことに、ここは工事中のため御手洗の所作は出来なかったが。


五十鈴川は、内宮の清らかさを示す象徴的場所

右手のゆるやかな斜面を下りていくと、元禄5年(1692年)徳川綱吉の生母・桂昌院が寄進したものといわれる石畳の五十鈴川の清流に出る、この岸が御手洗場である。 
神路山を水源とする神路川と、島路山を源とする島路川の二つの流れが合流して、五十鈴川となる。 

神域の西側を流れる五十鈴川は別名「御裳濯(みもすそ)川」とも呼ばれ、倭姫命が御裳の裾のよごれを濯がれたことから名付けられたという伝説がある。 
水源を神路山、鳥路山に発する神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で、心身ともに清めてから参宮するところである。


五十鈴川の畔から参道は、ほぼ直角に左折する。 「二の鳥居」をくぐると左側に大きな入母屋造の建物がある「神楽殿」である。 
神宮の神楽は一般に大々神楽と称していて、 江戸期、お蔭参りでの人々の一番の憧れは、お伊勢さまへの参拝と「大々神楽」を拝見することだったという。 

大々神楽の「神楽」とは神遊びともいって、わが国の大古から神事に用いられてきた歌舞である。天照大御神の神恩に感謝をささげるために奏するものであるが、それと共に皇室の繁栄、国の平安、町や家の安全、心願の成就などの祈祷がされる。

現在、大々神楽の主たる祭事は春の神楽祭、秋の神楽祭で、皇居および皇室安泰をまつるために奏するといわれるが、民間の神社の祭儀で奏する歌舞は「里神楽」といって全国各地に様々な系統があるという。 
神楽の発祥については、日本神話によると太陽神である天照大神(内宮祭神)が天岩戸に隠れて世界が真っ暗になった時、何とか気を引こうとアメノウズメが「神がかり」になってて舞ったのが神楽の起源であるとされている。
大々神楽は古き伝統に基づき、一般の歌舞祈祷は参拝者の申し出により随時執り行われているという。

隣に「御神札授与所」があり、おなじみの御神札(おふだ・皇大神宮札)・御守などの授与を取り扱っている。 
又、神宮独特の遷宮(20年に一度の御建替・・後述)の造営資金の献金も受付ている。
伊勢神宮のお神札(ふだ)は 一般に「神宮大麻(たいま)」(大麻とは、古くは「おおぬさ」と読み、「お伊勢さん」、「お祓いさん」、「神明様」などと呼ばれ「天照皇大神宮」と印され,神宮の清浄なる地で祈りを込めて奉製されている)と称して、全国の神社(氏神さま)を通じても毎年年末に神宮から「天照大御神(皇大神宮)」として、各家庭に頒布(はんぷ)される。



序ながら、拙宅では

拙宅でも年末には神棚を新装し、近所の氏神さまより「皇大神宮」の神札を戴いている。 
同時に「大年大神」(おおとしのおおかみ・日本でも珍しい家宅の神様)と「火産霊大神」(ほむすびのおおかみ・同義に火雷神(ほのいかづちのかみ)で火の神様、火伏せの神)も戴き、三柱を祀っている。


さて、同じ並びに「御酒殿」(みさかどの)、「御稲御倉」(みしねのみくら)、「忌火屋殿」(いみびやでん)、「籾だね石」(もみだねいし)、「踏まぬ石」(ふまぬいし)といった、およそ祭事の催物に関係した建物や石物が並ぶ。 
その奥まった一段高い処に「荒祭宮」(あらまつりのみや)の社殿が鎮座している。 


「荒祭宮」とは、天照大神の同一神

内宮(皇大神宮)には、別宮(わけみや)と称するのが十宮(下宮は四宮)存在し、周辺地域に八宮、この境内に二宮祭ってある。 
別宮は正宮についで、崇拝される御宮であり所属宮社(他に摂社、末社、所管社等、合わあせると125の社がある)のなかでも重んじられている。 

その荒祭宮は天照大御神の荒御魂を祀っている宮で、時に荒く猛々しく困った時に助けてくださる神様、長生きさせてくださる神様と、昔から厚い信仰があるとされている。 

別宮のなかでも第一の宮に位置するという。


参道を挟んだ向かい側に五十鈴川に架かる、これまた神聖で古式ゆかしい「五十鈴川御橋」(風日祈宮橋)がある。 
この辺りの森の雰囲気も実にいい。
クイズに「森」と「林」の違いは・・?とあったが、一般的には林は人の手が加わったもの、森は自然のままのものと言われる。 
だがこの神宮の森は「自然のまま」の放ったらかしではなく、上手に人の手が入って管理されているもの・・と理解したい。 

この奥に二つ目の別宮である「風日祈宮」(かざひのみのみや)の社がある。 
外宮の風宮と同じく、天候の順調や豊作を祈る風の神をまつり、元寇(鎌倉期の蒙古との戦役)に神風を吹かせたのはこの風日祈宮といわれてる。


日本語の文言に「風光」とか「風雨」とか、よく言われる。 
光は風を呼び、風は雨を呼ぶ。
この自然界の営みがバランス良く行はれるところに、自然の良質な豊かさや実りを得ることが出来、瑞穂の国、日の本はまさに恵みの国である。 
光の神は天照大御神、そして風の神は風日祈宮である。

その瑞穂の国をお守りするのが、お伊勢さん「伊勢神宮」なのである。


参道にて、なにやら中国人らしい団体さんが大声を張り上げて雑列をなしている。
物見遊山の見物でその騒々しさに嫌気が指すが、彼等にしても日本人の心の故郷、拠り所である「御正殿」へ参拝して、日本人の心の一端でも知ってもらえれば、それで良しとしよう。 

それにしても彼等は「靖国神社」をどう思っているのだろう・・? 
靖国も国内の名所の一つであるゆえ、参拝してみては如何かな・・!。

間もなく「本殿」(御正殿)に到着である。


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日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「おはらい町」

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日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「おはらい町」



「おはらい町」通り商店街。 名物・「赤福」も見える


門前町の「おはらい町」は、「おかげ横町」とも言う。

松阪市より本日の主たる目的地「伊勢市」へ到った。
「伊勢神宮」を参拝するにあたって、路順としては通常は外宮より周辺別宮を参り内宮へ達するのが本来らしいが、小生、道程の都合上内宮より参拝することにした。 

伊勢西I・Cを下りて、案内板に示されるとおりに進む、左手には立派な猿田彦神社が鎮座していた。


道案内(道祖神)の「猿田彦

猿田彦神社は、名前のとおりの祭神・猿田彦大神(サルタヒコノオオミカミ)を祀る社で、垂仁天皇の御代、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神の別天鎮座の地を求められた時、道案内をして五十鈴川の川上に導かれたという。 

元は、天孫降臨の際、邇邇芸命(ニニギノミコト)を高千穂に道案内をしたとされ、そのことから道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されている。
この為に神社は古来より善導の神として開運招福、家内安全、交通安全の守護神として信仰され、魂を導き甦(よみがえ)らせるという神威により「甦りの神」とも称され、別名「興玉の神」とも称えられている。 

又、古来より、土地を領する地主神(じしゅのかみ)と云われ、土地の邪悪を祓い清め災厄を除く「福寿の神」として信仰されている。
天照大神(皇大神宮)を導き、安心の地を示した猿田彦は、この地に天照大神を見守りながら鎮座している。


ところで伊勢市は、伊勢神宮の門前町として有紀以来から知られ、特に江戸時代からは大いに発展する。 
特に「皇紀2600年」(日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年:紀元前660年を元年として1872年:明治5年に定めたもの)にあたる1940年(昭和15年)には、皇紀記念を祝って約800万人が参宮のために訪れたという(当時の市名は宇治山田市)。 
現在も年間約600万人程度の参拝、観光客が訪れている。


門前、おはらい町

神宮を参拝するにあたり、浦田町の信号辺りからは「おはらい町」、「おかげ横町」といった神宮参道の門前町が五十鈴川沿いに約800m続き、お土産や飲食店が軒を連ねているのも楽しみの一つであろう。 
江戸期の「おかげ参り」が盛んな頃は、宇治橋を越え神域にまで家並みが続いていたという。

その昔、「おはらい町」の名は、御師(おんし)たちがこの地にあった自分の邸に参宮客を泊め、おはらい(お札)を授けて手厚くもてなしたことから付いた名という。
現在とは、やや異なった趣も感じられたようである。 

御師とは全国をめぐって神宮のPRにつとめた神職のことで、爆発的な参宮ブーム(おかげ参り)は御師の存在ぬきでは語れないという。 
今はもう邸は殆ど姿を消しているが「御師の門」が町内に残されている。


電柱が取り除かれた道路には石畳が埋め込まれ、町並みは伝統的な町家に混じり、昔の姿に再現されつつ店屋などが品よく続いている。 
特に建物は、昔ながらの妻入り様式(屋根組みの妻の正面を出入り口とする建築様式、関宿でも記したが当時の税金対策と、なにより神宮正殿が平入り様式〈棟と直角方向〉である為、遠慮したものといえる)の商家がズラリ並んでいる。
土産物店、食事処はもちろん銀行も堂々たるの妻入り様式で造作されている。

おはらい町の中央部、伊勢の老舗名物「赤福本店」、「五十鈴茶屋」の正面奥、文字通り横丁にあたる約3000坪の敷地につくられた「おかげ横丁」なるものが平成5年に誕生した。 

この横丁は、江戸時代のおかげ参りの華やぎを演出したといわれるミニタウンで、建物はいずれも由緒ある建築を細部にまでこだわって再現したものという。 
各商店は伊勢志摩の名産、名品がずらりと並び、見て歩くだけでも心うきたつ楽しさ、華やかさだ・・!!。



その「 おかげ参り」について

『 伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に 一度でも 』

と道中・伊勢音頭にうたわれたように、江戸時代、お伊勢参りは庶民の夢でもあった。
昔は伊勢への熱き思いはおかげ参り、抜け参りといった熱狂的行動として現れる。
特に江戸期における慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)、慶応3年(1867)には全盛期を迎え、「おかげ参り」と称する熱狂的な伊勢集団詣でが往来し、多い時には半年間で約458万人の参宮者があったと記録に残っている。

当然ながら地元・伊勢の人々は、「おかげさまの心」で、お伊勢参りの多くの人々を迎えた。 
それは平成の時代になっても、伊勢人情と参拝往来の人々は変わらない。

次回は、伊勢神宮の「参道」



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