2010年10月9日土曜日

日本周遊紀行(18)相良牧の原 「お茶と意次」

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 日本周遊紀行(18)相良牧の原 「お茶と意次」 



牧の原台地を新緑の茶畑群が一面に覆う



「牧の原台地」


大井川を渡り吉田町から榛原町、相良町を行くと、右手方向の高台に沿って緑の絨毯が敷き詰められている。 茶畑である。 
日本国内の約半分の生産量を占める静岡県の内、およそ7割が標高150メートル前後の、この「牧之原台地」で作られているという。


明治維新の時、幕府の瓦解で食の糧(かて)を無くした幕臣が大挙して静岡に移住し、そのなかで元新徴組隊士200人余が隊長・中条景昭とともに荒地の牧の原台地に入り開墾したという。 
それに続いて大井川渡しで失職したの川越人足達数十人も加わった。 
開墾は苦難の連続で脱落者も出たが、やがて近隣農民達にも開墾を促され、牧の原台地は東洋一の大茶園に変貌した。


ここでチョットお茶談義を・・、

お茶の銘柄で「やぶきた」とよく言われるが、これは米のコシヒカリ・ササニシキと同じ品種の名称で、全国で8割以上が「やぶきた」品種を栽培しているという。 

よく言われることだが・・、
緑茶」とは製造工程で高温の蒸気を当てるため、葉の中の酸化酵素が働かなくなり、鮮やかな葉緑色がそのまま残ることから言われる。
ここが酵素で酸化発酵させる紅茶やウーロン茶との違うところであり原料は同じらしい。 

緑茶には、旨味成分としてアミノ酸のアルギン酸やテアニン、渋味成分のタンニン、カフェインなどを含み、栄養成分ではビタミンCとEや各種ミネラルを含み、滋養飲料として重宝がられる所以であろう。 

製法では「深むし茶」、「浅むし茶」と比較されるが、深蒸し茶はその名のとおり茶葉を蒸す時間が長いため苦味や渋味が柔らかになって飲みやすい。 いわゆるマイルドな味わいのお茶をいう。 
蒸し時間の短い若蒸し製法(浅むし茶)は、お茶の葉の質がストレートに出る製法で、長時間蒸すことにより香りと渋味を消してしまった深蒸し茶にくらべ、香りや甘みが増すという。

最近の消費者は渋味を嫌い、また忙しいため、お湯をそそぐとすぐに出る深蒸し茶の需要が高くなっているともいう。
しかし、丹精込めて育てた山のお茶のすばらしさを味わうには、若蒸し茶が最適だとも愛好家は言う。



榛原町の海岸は遠浅の砂浜が延々と続き、砂丘には松林が品良く連続している。

特に「静波海岸」は良い。
100メートル位沖まで歩いていけるほど遠浅で、その名のとおり波静かな静波海水浴場は逸品である。
水質も良く、規模も東海一の静波は全国的にも知られ、毎年夏には100万人前後の海水浴客で賑わうという。

元々水好きな小生、子供が幼少の頃はこちらへ数回訪ねたことがある。 
車にテントを載せて、東名の吉田インターからは一投足で「静波オートキャンプ場」へ着く。
松林に囲まれたオートキャンプ場は設備も良く整っていて、実に勝手が良かった。 そして、なにより海は目の前にあった。 
よちよち歩きの赤ちゃんでも安心して、波打ち際で遊ばせることが出来るのは、ここぐらいだろう。



相良(さがら)の街へ至る。 

ここは善と悪との評判高い、大名「田沼意次」(たぬま おきつぐ)の城下街である。
紀州藩主・徳川吉宗が将軍として江戸に上がった時、300石の旗本として御供をした父意行(もとゆき)の子として江戸で生まれている。 
八代将軍の徳川吉宗に登用され、九代将軍家重、十代将軍家治に仕える。
遂に老中を兼任するまでに至り、相良藩5万7千石の大名に取り立てられた。 

このころより「田沼意次」を中心とした幕府の閣僚は、農業より商業を優先した数々の政策・幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれ権勢を振るう。
町人・役人の生活が商業金銭中心のものとなり、その為、贈収賄が横行したとも言う。 
「意次」も政策実行のため「袖の下」を利用し、所謂「ワイロ政治」と呼ばれた。

この時代、天災、飢饉、疫病が多発し、江戸商人への権益を優先したことを理由に賄賂疑惑を流され、田沼政治への批判が高まる。
更に、急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い、将軍家治の死亡後に遂に失脚することになる。 失脚後は蟄居を命じられ、領地も没収される。

次の松平定信(陸奥・白河藩主)の時代になって「倹約政策」が実行され、賄賂や庶民の贅沢は一切禁じらた、「寛政の改革」という。

1758年に田沼意次が相良藩主となり、12年かけて築城した相良城は、三重の堀をめぐらし、建物も「けやき」づくりで、遠く海上からも眺められ、まるで竜宮城のようであったと言われている。 
「相良」における藩政は、下町の整備、産業の奨励、飢饉対策や相良湊の整備など地元民には多いに貢献している。

 『 白河の 清きに魚も 住みかねて 
          もとの濁りの 田沼恋しき
 』 

現代ではかなり問題であるようが・・!!


次回は、「御前崎


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2010年10月8日金曜日

日本周遊紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」

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 日本周遊紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」 



焼津は「日本武尊」伝承の地

焼津へ到達した。 
昔から全国一遠洋漁業の盛んな街であり、焼津漁港の全水揚げの6割がカツオ、3割がマグロといわれる。 
江戸期には焼津産の鰹や鯛を駿府城に隠居していた徳川家康にも献じたといわれ、所謂、駿府城御用達でもあった。


焼津は静岡市との境に「東海の親不知」とも言われる駿河湾に面した深海湾が、険しい大崩海岸というリアス式海岸を形造っている。
この険しい地を、日本坂トンネル(1979年7月、トンネル内で発生した事故火災により、数十人の死傷者と170台の車が延焼したことで有名)を抱える東名高速やJR、国道がひしめきあっている。

それとは対照的に南側には、大井川の扇状地である志太平野が焼津の町・港を形成している。
この様な特殊な海岸地形が、昔から漁業が盛んだったともいわれる。



JR焼津駅の南西約1kmに「焼津神社」が鎮座している、祭神に「日本武尊」(ヤマトタケル)を祀っていて、この地はその伝説の地でもあった。

古事記における日本神話では日本武尊の東征のとき、この地の国造(くにのみやっこ:古代の世襲の地方官)が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち陥れようとした。 日本武尊は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで熱田神宮の神体である)で周囲の草を薙ぎ、向火(迎え火:山火事などを抑えるのには有効といわれる)を放って難を逃れたと伝える。 
その様相が烈火のように見え、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名されたといわれる。
又この後、この剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名されたとされる。
尚、日本武尊の東征の様子は、東日本編の「千葉・木更津」の項で記載してあります。
千葉・木更津URL::http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-16-5.htm



意外と水量が少ない広大な大井川河口付近。(河口に一番近い大平橋より)



市内を過ぎると、道は地方道(県道)31号を行くようになる。 石津辺りの松並木が実にいい雰囲気を造っている。 
大井川町の海岸部は、大井川河口のデルタ地帯といえる見通しの良い平坦地が続く。
その大井川の港を迂回して河口に一番近い「大平橋」を渡る。

広大な河口は砂州と水流の部分が半々ぐらいであろうか、橋の長さも2kmに及ぶようだ。 
大井川は,3,000m級の山、南アルプスを源流とする大河であり、日本でも有数の急流河川として知られる。   
だがこの辺り、広い川幅の河口の割には比較的水量は少なく見受けられる。 渇水期でしかも上流に多くのダムが作られているせいもあろうか。

しかし、昔は違っていたとよく言われる。

  『 箱根八里は 馬でも越すが、
           越すに越されぬ 大井川
 』

といわれるように、往時は東海道を基点に上・下流の遠方まで橋は架けられていなかった。


大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。
流域の平均年降水量は3千mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であった。 
加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にある為土砂流出量も多く、広大な河原を形成している。 
中流部は「鵜山の七曲り」に代表される大蛇行地帯でもあり、こうした特徴的な河川形態が大井川を国境として利用され、駿河国と遠江国の境界線であった。 
ただ氾濫により度々流路が変わるため、紛争の原因にもなりやすく、徳川家康や武田信玄の対立の導火線になったといわれる。

江戸時代には江戸防衛のために架橋や渡船が禁じられていたという。 
そのため人や馬の背に乗せて旅行者や荷駄を渡河させる川越(かわごし)が行われた。これによって、東海道でも1,2を争う難所とされ、増水の際は川留めとなった。



慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の恩顧に反し、揃って東軍・徳川方に付き、その功あって戦後は山内一豊は土佐へ加増転封されたのを始め、堀尾吉晴(ほりお よしはる:豊臣政権三中老の一人、出雲松江藩)や中村一忠(秀吉重臣・一氏の嫡男、伯耆米子)等の諸大名は西日本へ転封となった。 

その後は、東海道筋は天領・親藩・譜代(徳川家近臣)の大名で固められ江戸の防衛に当っていた。 
大井川に関しては、当時平均水深が80cm余りあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たす為、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされたという。 
この為武家大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河する川越(かわごし)が行われた。
こんなことで、大井川を渡河する拠点の宿場町として「金谷」等が発展したという。


この河口上流・東海道線に「金谷」の駅が在る。
名物、大井川鉄道のSL列車が大井川に沿って「千頭」まで上る。 SLの郷愁を感じつつ、大井川の清流と広大な川根茶の畑を眺めながら、秘境・寸又峡の景観に触れ、温泉に浸かる。 
2,3度訪れたことがある良き旅の思い出であるが、尚、千頭駅からさらにアプト式鉄道井川線(スイスで生まれた、歯車を使って急坂を登る特殊鉄道で、2本の線路の間に歯車用のレールを付けたもの。急な坂を専用機関車を連結し力強く登って行く)で接阻峡温泉駅そして南アルプスのふところ深く「井川」まで延びている。
秋の紅葉シーズンに是非訪れたい処である。

次回は「牧の原、御前崎



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2010年10月6日水曜日

日本周遊紀行(16)静岡 「駿府と家康」

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 日本周遊紀行(16)静岡 「駿府と家康」 



駿府・「久能山と家康」

再び国道150を行くことになる。 
右手の山裾、丘陵地にはビニールハウスが毀れんばかりに並んでいる。 
イチゴハウスである。

久能は石垣いちごの名産地であり、この街道、通称「いちご街道・いちごライン」と呼んでいる。 
今年(2005年)の早春、孫の家族と一緒に当地へ来てイチゴ狩りを行なっていて、「ストロベリーフィールド」という農園を訪れている。 
後で知ったのだが、この農園は、昭和初期より皇室御用立てであり、けっこう文化人らが来園していたらしい。 特にヘレンケラー女史(米国の世界的な教育家・社会福祉事業家)が来園していたことはビックリであった。


入園料を払って、指定されたイチゴ畑へ行くと、そこははかなりの急傾斜地で、ビニールハウスが階段状に並んでいる。 中へ入るとほんのり暖く、イチゴの甘酸っぱい香りが鼻に響く。
石垣にぶるさがった青い葉の間に、大粒の真赤に熟れたイチゴ実が食欲をそそる。 
摘んで頬ばると本当に甘い、実に旨い、この味はスーパーでのイチゴでは味わえない美味であった。


当時を思いながら、久能山へ向かう。
海岸線の真近をR150は行く、太平洋・駿河湾の青蒼が目に沁みる。 
やがて「久能山・東照宮」の大きな案内板に従って、右方角へ行くと立派な鳥居に突き当たった。
海側の参道入口で、久能山東照宮は山の上に在る・・、と聞いていたので、これより階段の上りとなる。
手前に、階段の説明があり、覚悟の数字が記してあった、1159段(いっぽいっぽごくろうさん)。 

先ずは、歩を進める。 
それこそジグザグの”つずら折り”の登りで、下界の視界が徐々に広がってくる。
急ぎ足で15分くらいか、宮の入口へ到達した。 
受付が有って、参拝料が必要らしく、小銭の用意が無く、無文の小生は仕方なく受付で案内書を戴き、周辺を見物して、元来た道を引き返した。
 


徳川家康は1616年、73歳で駿府城で死去している。
遺言によりこの地、久能山東照宮に遺骸が埋葬された。 
久能山は、「 あたかも桶を伏せたるが如く 」といわれるような、断崖に囲まれた天然の要害の地である。
奈良期(世紀600年頃)、久能忠仁によって開かれ一寺を設けたといわれる。
久能忠仁(くのうただひと)は、渡来民族・秦氏の直系一族である。

秦氏は古代、中国からの百済を経て日本に渡ってきた渡来民族であり、秦始皇帝の後裔とされるが、確実性は疑問ともされているというが。 
百済から渡来帰化した数多い渡来系氏族の中でも多くの人員を擁した集団で、全国規模に分布したとされる。 
秦集団は養蚕・機織製品の貢納から、土木・建築を含め活動を拡大し、様々な国の事業に加わり、朝廷内の諸宮司にも進出したとされる。


6世紀後半から7世紀にかけ山背(山城=京都)の太秦(うずまさ・京都太秦撮影所付近で、隣地・広隆寺)に本拠地を置き、氏の族長的人物は「秦河勝」であった。
静岡県では、大井川右岸榛原郡初倉村(現、島田市初倉)に秦一族が居住繁栄したという。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。
彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られる。 

久能忠仁は、その秦河勝の子、又は孫とされている。
はじめ寺名を補陀落山・久能寺と称し、久能山の名称もこれから起こったといわれる。
その後、僧・行基を始め、多くの名僧が訪れ住み建物寺院の数も一時は330坊も建ち並び、隆盛を極めたという。


永禄11年(1568年)武田信玄が山上に城砦を設けて久能山城と称し、東の北条氏、西に徳川氏への備えとしていた。 
武田氏が滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有することになるが、家康は死の真際に望んで、西の諸大名が異心を抱き、謀反など発起させぬよう、睨みを効かす為に険峻高地の久能山に菩提寺を選び、亡骸を西側に向かせて葬るようにと、遺言したという。


久能山東照宮・御社殿;漆塗、金箔装飾、微細彫刻を施した華麗にして豪奢な社殿



二代将軍秀忠により、権現造の極彩色で造営された社殿は、荘厳な雰囲気で見る者を圧倒している。 拝殿等の社殿は権現造、総漆塗り、極彩色に彫刻、模様、組物は桃山風の技法を施し、江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されている。
又、楼門、神厩[うまや]、神楽殿等、重要文化財が立ち並ぶ。

家康公は後に「東照神君・東照権現」となり、平和、開運、学問、厄除の神として崇められ、全国東照宮の根本大社として幅広い崇敬を受けている。
祭神は「正一位 徳川家康公」、相殿に「正一位 豊臣秀吉公」「正一位 織田信長公」を祀る。

正一位とは平安期、律令制における官位のことで、いずれも天皇から授かる。
一から五位まで正と従があり、正一位は最高官位である。
20年の後に、三代将軍家光によって、御霊[みたま]は日光東照宮へ移された。
 
ご存知、三者を現した句に・・、
『 啼かぬなら 殺してしまえ 不如帰 』 信長
『 啼かぬなら 啼かせてみよう ホトトギス 』 秀吉
『 啼かぬなら 啼くまで待とう ほととぎす 』  家康


天下統一を果たし、270年にも及んだ江戸幕府を開いた家康は1542年、当時、松平氏として岡崎で生誕している。 
幼少時分は苦労の連続で今川氏の駿府城下、家康は今川家の人質として19歳までの12年間を過ごしている。
不自由な生活に耐えることで忍耐強い性格がここで形成される。

織田信長の台頭により岡崎城主として復活している。 
後に浜松に城を移し、城主となった1572年、上洛中の信玄に「三方ヶ原の戦い」で大敗を喫する、家康初の敗戦である。 
その後、織田信長、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と手を結び次第に勢力を伸ばしていった。 
両氏亡き後、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の合戦」で、徳川東軍を勝利に導き、更に、豊臣遺子(秀頼)を「大阪の陣」で滅亡させる。

1603年、江戸に幕府を開き徳川政権下、征夷大将軍になったが、わずか2年で秀忠に将軍職を譲り、駿府に戻って大御所と呼ばれるようになった。
晩年になって、天下統一を果たした家康は、忍従と波乱に満ちたの一生であったといえる。


家康公の遺訓

『 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。 堪忍は無事長久に基、怒りは敵と思え。 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る、己をせめて人をせめるな。 及ばざるは過ぎたるよりまされり 』

『 人はただ 身のほどを知れ 草の葉の 
          露も重きは 落つるものかな
 』  家康

1541~1616年、75歳の生涯を駿府(静岡)で、その幕を閉じている。


静岡駅前の中心地に駿府城・史跡公園が在る。

駿府城は、中世(南北朝期)清和源氏・足利一族の名門である今川氏によって、この地に今川館が築かれたが始まりという。 
織田信長、武田信玄、徳川家康の侵攻で今川氏滅亡と共に、一旦失われたが、その後、駿河を支配した家康によって築城されている。

戦国末期、秀吉が天下統一の総仕上げに小田原・北条攻めを実行する時、この駿府城で家康と談義し、北条亡き後、家康は江戸に封じられることを知らされる。 
駿府城は秀吉傘下の中村氏(秀吉の譜代家臣、一氏、一忠)が入城する。 
秀吉没して、関ヶ原の合戦の後、再び徳川家が領する。


江戸初期には、大御所となって駿府に隠居した家康によって大修築が行われる。
城の構築は、家康自ら名だたる諸大名に普請手伝いを命じた。 

御殿の設計は、小堀遠江政一(建築、造園の大家・小堀遠州)、設計者も大工も共に、名古屋城と同じ人であり、出来栄えも名古屋城と同じだったという。
城郭・五重七層の大天守閣が慶長12年(1607年)に完成している。この大御所政治時代、城下町・駿府は、政治・経済の中心地として大いに繁栄した。



国道150から静岡市内への途中、東名高速を過ぎた所に有名な「登呂遺跡」がある。
戦中の昭和18年発見され、終戦後昭和22年から大規模な発掘調査が行われた。

この遺跡は弥生式文化の後期集落遺跡であり(2000年前)、古代日本の地方農村の状態を知ることができる貴重な遺跡であるという。

その後昭和41年、東名高速道路の工事のため再発掘調査も行われた。 
特別史跡」に指定、現在「登呂遺跡公園」として保存されている。 

尚、この遺構発掘は青森・三内円山遺跡(青森市:縄文前期・中頃から末期、約5500年前~4000年前の大規模集落跡) 佐賀・吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡:我が国最大の弥生時代の遺跡で600 年間の集落跡)などの発見のさきがけにもなったとも言われる。



静岡の西に「安倍川」が流れる。 
普段の安倍川は、広い河川敷には不似合いの極わずかなの表流水が縞状に土砂の間を流れている。 
本来、安倍川は国内でも有数の急流河川であり、おまけに、日本三大崩れ(富山・鳶山崩れ, 長野・稗田山崩れ)の一つの「大谷崩れ」をかかえる川で、源流部の梅が島地区は大崩壊地となっている。 

大谷崩れ」によって夥しい量の土砂が駿河湾に流出し、これによって清水の三保半島が形成されたと言われる。
もっとも、現在では安倍川の河川改修が進み、尚且つ土砂・砂利の採取で海への流出が抑えられ、逆に三保海岸・羽衣の松周辺の砂浜海岸の侵食が進んでいるという。
そのため沖合いに波浪防止・波消しブロックが投入され、美観と自然防災の、はざ間にたっている、という笑えぬ状況も起きているという。 

又、安倍川の流れが山麓部の扇状地、即ち静岡平野を作り上げ、集落・部落が出来、田畑が広がり人口も増え、現在の静岡市が誕生したとされる。 その前進が弥生期における登呂の遺構であった。


2003年4月、静岡市と清水市は対等合併により新静岡市が誕生している。 
2005年、静岡市が政令指定都市(人口50万以上の指定都市)に移行するとともに、旧清水市域に清水区、静岡市域は葵区、駿河区という区政が新たに設置された。 

次回は「大井川の渡し



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2010年10月5日火曜日

日本周遊紀行(15)清水 「三保の松原」

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日本周遊紀行(15)清水 「三保の松原」




三保の松原」は駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に、白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地。



清水の街から国道149で三保の分岐へ出る。 そして羽衣伝説の「三保の松原」へ向かった。
案内に従って進むと「御穂神社」が在った。 緑に囲まれた静寂の地に立派な拝殿、本殿が鎮座している。

御穂神社は大国主命が姫(三穂津姫命)と羽車に乗り、東方へ新婚旅行に来た際、景勝の地で海陸の要衛でもある三保の浦に降臨して、我が国土の隆昌と皇室の繁栄とを守るため、三保の森に鎮座されたのが起こりという。

三保は歴史的には、日本書記にある『白村江の戦い』(はくすきのえのたたかい:663年)に古代・清水から出兵した「庵原の君」の根拠地としての伝承もある。
7世紀頃の東海地方は、相武(さがむ)の国、師長(しなが)の国、朱流河(するが)の国、蘆原(よはら;後に庵原の国となる)の国があり、其々が合併して相模国、駿河国ができたといわれる。
この庵原の君とは、この蘆原国の国造(くにのみやつこ:国守)ではないかとされている。

又この地は、戦国時代以降は武将の戦略の拠点として今川氏や武田信玄、徳川家康も海上交通の拠点としていた地である。
そして古代より御穂神社は海の守り神、海の神として尊崇されていたという。

一般民衆よりも三保大明神として親しまれ、両神(三穂津彦命・大国主命)は国土開発の神様であり、又、二神は夫婦和合の縁結び、航海安全、農漁業、文学や歌舞・音曲の神としても仰がれている。

神社正面より海岸へ向かって、松樹の道が整然と延びている。 この道は「神の道」と称している。 きっと、両神がお渡りになった道なのだろう。 


年代嵩む「羽衣の松」;近年、世代交代が行われるらしい)
(追記;2010年10月、羽衣の松が数世紀ぶりに世代交代を行う。詳しくは下記静岡市観光課H・Pへ)
静岡市観光課:http://www.city.shizuoka.jp/deps/kanko/hagoromo.html



付近を近所のオバサン達が清掃に励んでいた・・、
「 羽衣の松はこちらでよろしいのですか・・? 」
「はい・・、車を置いた、すぐ先にありますよ・・」 

整備された緩やかな階段を行くと、品のいい松の林が広がっていた。 
気が付くと、処所で中年の女性たちが、熱心にキャンパスに筆を入れていた。 そして「羽衣の松」は、海岸近くに柵に囲まれて堂々と貫禄充分で有った。 だが650年という歳月を背負ってか、幾分、老衰気味であったのがやや気掛かりである。 ベテランの樹医の下で、充分な生気を取り戻して欲しいものである。

三保の「羽衣伝説
『昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて空高く天に昇っていきました。 』
御穂神社には、羽衣の切れ端が今も保存されているという。

又、「天の羽衣伝説」は三保の松原以外の各所にも残っている。 
余呉湖(よごこ:滋賀県北部、伊香郡余呉町および木之本町にある湖で、「よごのうみ」とも読む。日本最古とされる羽衣伝説の地として知られる)や京都峰山(近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる)、千葉・佐倉等でもあるようだ。 

中でも佐倉の天女伝説 は、『 平将門が佐倉の「おもが池」に赴いたとき、一人の天女が羽衣を脱いで遊んでいた。将門は羽衣を奪い取り、天女を連れ帰って契りを結び、三人の子を生ませた。その後、天女は羽衣を取り戻し、子供を置いて天に帰っていった。 しかし、さすがに子を思う情は尽きず、三通の便りを送ってきた。その時、月の石(千葉石:隕石とも言われる)に便りを結びつけて、天から降らしたという 』



大正時代に選定された新日本三景には、大沼国定公園の「大沼と駒ヶ岳」、耶馬・日田・英彦山国定公園の「耶馬渓」、そしてもう一箇所が冨士を背景にした「三保の松原」が選ばれている。

それと「三保の松原」は福井県敦賀市の景勝地・「気比松原」 (けひのまつばら)そして「虹の松原」(佐賀県唐津市の唐津湾)と共に日本三大松原の一つでもある。



駿河湾を挟んで白砂青松と紺碧の空に白い雪を被った富士山が望まれる景勝の地、其れに羽衣伝説も加わっての「三保の松原」は古今、伝承と名勝の地である。

次回は「駿府(静岡)と家康



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2010年10月4日月曜日

日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」

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 日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」 


真下といっていいほど、左手に駿河湾の紺碧がキラキラ揺れている。
間もなく清水へ入った。
清水港は近代的な築港埠頭が並ぶ。 

往時の清水港は、「三保の岬」が港の近くまで突き出ていて美観を呈していたという。
そして、ここに稀代の侠客・・?が現われた。 

その名は『清水の次郎長』という。

♪♪~~旅ゆけば~、
駿河の国に茶の香り~、
名大なり東海道、
名所古跡の多いとこ~、 
中で知られる”羽衣の松”と
並んでその名を上げし、
海道一の親分は~、
清水港の次郎長~~♪♪


御存知、お馴染みの、(否・・?今の若い人は、あまり御存知でも、お馴染みでもないかもしれないが)初代・広沢虎造の「清水次郎長伝」、サワリ(唄い出し)の一節である。

小生家族、子供が未だ小さかった頃(小学以下・・)、車で旅行などに出掛ける時に、退屈しのぎに清水次郎長伝・ 「石松金比等羅代参」や「石松三十石船」などの長編カセット一式を持って、聞きながら道中を行くのである。 

はじめ子供達は「なんだ、このペンペン・・、つまんないよ・・」と言いつつ、知らずのうちに聞き始まり、うるさかったのが静かになって、やがて聞き始まっていた。 
そのうちうる覚えに覚えてしまって、一緒になって唄いだす始末である。 
遂には、車で出かける際には「お父さん、例のカセット持った・・?」などと催促されるまでになってしまったのである。

特に、子供達の評判が良いのは、やはりこのあたりであった。

石松金毘羅代参の一節・・、

森の石松が、親分・次郎長に人を切って穢れた刀を讃岐(四国香川)の金毘羅さん(金毘羅神社)に代参として納めるように頼まれる。 そして、無事に讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めることができた。 勤めをすませて大阪へ戻り、八軒家(今の天満橋あたり)から船に乗って、好きなお酒を飲みながら京都伏見までの船旅となる件(くだり)となる。 当時の川船が、所謂、三十石船で、この船中の乗合衆の話がが表題になっている。 

そして、石松と船客の会話では・・、
石松: 「呑みねえ,呑みねえ,鮨を食いねえ,鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子: 「神田の生まれよ」
石松: 「そうだってね,そんなに何か,次郎長にゃいい子分がいるかい」
江戸っ子: 「いるかいどころの話じゃないよ、千人近く子分がある中で、代貸元をつとめて、他人(ひとに)に親分兄貴と言われるような人が二十八人、これをとなえて清水の二十八人衆・・この二十八人衆のなかに、次郎長ぐらい偉いのがまだ五,六人いるからねえ」
石松: 「ほう、呑みねえ、呑みねえ、鮨を食いねえ、鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子:「神田の生まれよ」

  ・・・・


浪曲は心の故郷、大人の子守唄」とも言われ、昭和の良き時代は浪曲(浪花節)全盛であった。 中でも「虎造節」とまでいわれた。 「清水次郎長伝・ 石松金比羅代参」は一世を風靡したのである。


ここで浪曲の事を語るつもりは無いが、清水が生んだ清水次郎長のことである。

清水次郎長は1820年1月1日、静岡県清水市の船頭の家に生をなし、長五郎と名付けた。 後に山本家に養子にゆく、そして、次郎長と呼ばれるようになった。 当時、元旦生まれの子は、よほどの偉人か、悪人になるという言い伝えがあったようであるが、確かに次郎長は生涯の前半はヤクザの親分として森の石松代参事件や吉良の仁吉の荒神山の争いなど、虚実おりまぜて語られてきた。 遊侠の徒、裏街道の人性としては「悪人」(悪い人の意味ではない)の部類に入るかもしれないが。


「荒神山の血煙」を終え、次郎長が東海の大親分となったとき、時代は大きな転換期を迎えていた。
幕末動乱期、官軍は東海道を上り江戸の総攻撃をもくろむ。 江戸城城代「勝海舟」は、それを阻止すべく側近の「山岡鉄舟」に密書を授け、官軍総督・西郷隆盛の元に派遣する。 この鉄舟の道中の護衛役を次郎長が果たしている。 江戸戦争回避に一役かったのである。 

以降、次郎長は山岡鉄舟によって苗字帯刀(武士の身分)を許され、この東海道の取締方に任ぜられてる。
次郎長はその後、咸臨丸事件の収拾や維新後の清水の発展に多々貢献をする。 
三保の新田開発、巴川の改修(次郎長生家のすぐ前)、油田開発、英語学校の設立、又回船を蒸気船にし、海運会社の設立等。
中でも有名なのは茶畑の開墾事業である。 これには、次郎長自らも鍬をふるい、昔の子分衆たちも次郎長を慕って集まり、一緒に原野を耕してたという。 そして全国の家庭に、そのお茶が届けられている。
このように後半生は偉人としてその名を残しているのである。


因みに、咸臨丸事件とは・・、

戊辰戦争もほぼ終結し、官軍勝利におわった。 
品川沖に集結していた咸臨丸をはじめ幕府艦隊はこれを嫌って脱走してしまう。 咸臨丸は途中故障し損傷して脱走不可能と判断され清水港へ入った。 追手の新政府の討伐隊は清水港の咸臨丸めがけて攻撃し、斬合いが始まり、あっけなく勝負がついた。 政府軍は艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。 
討伐隊が去って数日、港は死臭で耐えられなくなったという。 討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。 賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされ、付近住民は暫くは誰も恐れて手を下さなかったという。 清水次郎長は港内各所に流れついた死体を夜になって集め、こっそり無縁墓地に葬ったという。

死体収容にあたり、次郎長は
『 人の世に 処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ、若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや 』(生きている間、賊や敵であっても、死んでしまえば罪は全て消え失せ、皆んな仏様よ) と言ったと言う。

後に、山岡鉄舟がその志に感じ入り「壮士墓」と書いて与えたという。
清水の次郎長が人を引き付けるのは、前半生の侠客としてであろう。 義理と人情の世界に生きた人間味溢れるところであり、日本人の原点がここに見出せるからであろう・・? ここが講談や浪曲によって語られ、表現されている所以であろう。


昨今、大衆娯楽芸能で漫才や落語はもてはやされているが、残念ながら、講談や浪曲は下火のようである。 
誰かが言っていた。
「浪曲は忘れられている。かってあれだけ誰もの心をとらえ、鼓舞し、われわれ日本人の中にある『にっぽん』を作り上げてきた。その途方もない力をなぜかみんなきれいさっぱり忘れている。浪曲に対して、われわれ日本人は恩知らずである」・・と。


明治26年、74才で大往生をとげた次郎長は大政小政たちと一緒に、市内・梅蔭寺に眠ってる。 
境内には、次郎長愛用の品々を展示する記念館もある。 現在、市中には「次郎長通り商店街」があって年に一度の「次郎長祭り」に、この商店街を次郎長一家28人衆が練り歩くという。 
ごく近くに梅蔭寺がある。

平成15年(2003年)4月1日、清水市は静岡市と合併し、新静岡市として吸収されてしまった。 
清水市としての由緒ある名称が又一つ消えてしまたのであり、御大・清水の次郎長は、妙にも「静岡の次郎長」に成ってしまったのであろうか・・??。


旅姿三人男

1 清水港の名物は        2 富士の高嶺の 白雪が
  お茶の香りと 男伊達        溶けて流れる 真清水で
  見たか聞いたか あの啖呵     男磨いた 勇み肌
  粋な小政の 粋な小政の      何で大政 何で大政 
  旅姿                  国を売る

3 腕と度胸じゃ 負けないが
  人情からめば ついほろり
  見えぬ片眼に 出る涙
  森の石松 森の石松 
  よい男
 
次回は「三保の景勝



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2010年10月3日日曜日

日本周遊紀行(14)蒲原 「由比正雪」

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 日本周遊紀行(14)蒲原 「由比正雪」 



安藤広重の東海道五十三次画から「蒲原・夜之雪



国道1号線へ出て、富士川の長い鉄橋を渡ると間もなく蒲原で、東海道五十三次の蒲原宿である。
安藤広重」が、とある一行に加わり、東海道を京まで旅行したときに描いたのが「東海道五十三次画」であるのは承知だが、中でも傑作なのが雪の蒲原宿を描いた「蒲原・夜之雪」と言われる。 

広重はこの絵を契機に風景画の第一人者としての出世するのだが。 
ただこの絵の不思議なところは広重が京に向かうのは夏季であり、ましてこの地方は温暖で冬でもめったに雪は降らないし、余り見かけない、 その蒲原が何故雪景色なのか・・?。
未だこの謎、疑問はまだ解かれていないとか・・!。 
きっと広重は当地で「北国の冬景色の夢でも見たのだろうか・・??」
 

次の「由比」は賑やかなところである。 
はじめ国道1号線は太平洋の雄美な海岸線を走っていたが、東名高速と交差する辺りから、今度は東名が海上をゆくようになる。
そのすぐ横を国道1号線、さらに東海道線、そして地方道、この間に住地が密集している。 おまけに東海道新幹線が山の端から顔を出しているのである。

山腹が海岸近くまで迫り出しているため、こんな風景を形造っているのだろう、時折、ポスターなどにも描かれているようだが、国内でも珍しい処だろう。 
由比は、チョッと騒々しく賑やかなところである。 


江戸初期の慶安期、徳川幕府を批判しクーデターを計った事件が発生する。 世に慶安事件という。
事件の首謀者は「由比正雪」。 由比町の紺屋・染物屋の出身である。

江戸初期の頃の幕府の政策は、所謂、武断政治(武力を以って行なう強圧的な政治)が強行されていた。
問題を起こした諸大名はお家断絶や取潰しも珍しくなく、浪人が発生する要因にもなっていた。 

江戸で軍学塾を営んでいた由井正雪は浪人に人気があり、幕府の強圧政治に不満を持つ彼や浪人衆は、三代将軍・家光の死を機会に江戸、駿府、大坂、京で決起挙兵をもくろむ、現在で言うクーデターであろう。 
しかし、計画は事前に漏れ発覚、同腹の丸橋忠弥が逮捕されて死刑になると、発覚を恐れた由井正雪は駿府で自害してしまう。 クーデターは失敗に終わったのである。

この時代、幕府の強圧政策や浪人圧迫に対する反撥で、江戸庶民の間にも関心を呼び、「慶安太平記」などの芝居となったり、講談にて語られた。 近代では浄瑠璃・歌舞伎にも演じられているようである。 
この事件が契機で、幕府の武断政策は文教政治の方向(儒学者の新井白石などを登用する)へと転化されるに至ったという。
(平成17年:2007年5月23日訪問)



【 閑話休題 】
走行中、或るニュースを耳にした。
北海道の稚内で今日、日本列島最後の桜が開花した」という、時に本日は5月23日(2005年)である。 
今年の桜前線は1月15日に沖縄の石垣島でヒカンザクラが咲いてスタートし、4カ月少々かけ北上して稚内に最終ゴールしたことになる。

序ながら、桜の開花に関する事について・・、
桜花が開花する時は「開花予想」と「開花宣言」という呼称があるという。
開花予想については、現在は気象庁のコンピューターで計算している。 まず、花芽が休眠から目覚める日を「起算日」(事柄を計算する時の初日、桜花開花の場合、気象庁が管轄する部署で花芽を見て起算日を決める)とする。
一般に、花芽が目覚めてから平均気温15度の日が21日分あれば、開花の準備が整うといわれる。 開花宣言は、観測地点ごとに定めた「標本木」の開花状況を見て出される。 各地区によって標本木の本数と桜の品種によって決められている。 

因みに東京地方の開花と満開の定義での対象樹は「ソメイヨシノ」で、靖国神社の開花基準木(標本木)三本中二本の木でそれぞれ5~6輪の花が開いた状態を東京地方の「開花」と言い、また、「満開」とは、同じ開花基準木(標本木)三本中二本の木で花が80%以上咲いた状態を東京地方の「満開」と言うらしい。 
標本木は、日当たりのいい平地に生育するものを複数本選び、各管区気象台技術部観測課の職員が予想開花日の一週間ほど前から毎日観測箇所に行き、観測は肉眼で数輪咲けば開花、80%以上咲けば満開と称しているという。

次回は、清水・「清水の次郎長



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01. 15.

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