2010年7月16日金曜日

日本周遊紀行(118)銚子 「醤油と鰯と天保水滸伝」

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 日本周遊紀行(118)銚子 「醤油と鰯と天保水滸伝」 



犬吠崎灯台



賑やかな町、「醤油と鰯と天保水滸伝」の銚子・・、

銚子の街から犬吠崎へ向かう。 
市街地より河口付近の岬へ向かったら、そこは銚子ポートタワーが朝靄の上空へ向かって天を指していた。
高さ57mのツインタワー構造で、雄大な太平洋と大利根の河口の景観を楽しめるというが、今時は、まだ開館していない。

君ヶ浜の美景を眺めながら、次に白亜の犬吠崎灯台へ着いた。
所謂、ここが「銚子っぱずれ」の地であろう。 

レンガ造りの建築物としては日本一の高塔(31m)だそうで、発光輝度も日本一の灯台らしい。 
世界の歴史的灯台100選」に選ばれている。

ここは関東最東端の地で、緯度と経度の関係から富士山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を拝めるところである。 
正月元日には「初日の出」を拝もうと、周辺各地からマイカーが押し寄せ、周辺道路は渋滞となって、あげくは見損なうといった笑えぬ事例もあるとか。



ところで銚子は古くから「醤油」の町として知られる。

近世、房総の地へ関西人の移住が盛んになり、江戸中期には紀州から「浜口儀兵衛」が移ってきて、銚子に醤油の醸造を広めたとされる。 
その元禄期前後には、銚子の醤油産業が大いに発展したとされている。

銚子の利根川は江戸期、江戸~銚子間の利根水運が開かれ、東北地方の米・物産などを江戸に運ぶ重要な中継港として発展してきたことは、先に述べたが、水運利用の隆盛を背景に、醤油醸造と漁業が飛躍的に伸びたとされている。 

醤油の起こりは、元は味噌の製法から発明されたという。

紀州・由良町の僧侶・覚心が修行中の中国から我が国に初めて味噌及びその製法を伝え、味噌の製造過程で溜醤油(たまりじょうゆ)が発生、これを精製したのが醤油といわれる。 
醤油は近隣に広まり、後に、隣町である湯浅町の浜口儀兵衛が房総・銚子へ移住して広まったという。 


現在は街中にヤマサ醤油工場、ヒゲタ醤油工場が有る。
キッコ-マンの始祖となる茂木家、高梨家が野田で醤油を始めるのは17世紀頃で、銚子より遅れること半世紀たってからであるとか。

関東平野の川筋では、原料となる大豆や小麦、塩が近在で採れ、湿った川風が醤油つくりに適していたと言われる。 
材料も、製品も運ぶのには川が活躍し、更に、江戸川の整備が進むと、野田から日本橋までは半日で届いたといわれ、これで野田の醤油も勝機をつかみ今日に至っている。 

因みに、醤油を「むらさき」と呼んでいたのは、江戸時代に紫色を珍重する気風があり、同じく似たような色で貴重品であった醤油をそう呼ぶようになったとされているが。


江戸末期には、「イワシ」の大豊漁が続き、大いに沸き立つ中、「大漁祭」が行われるようになった。 
その祭のときに歌われたのが「大漁節」で、千葉県を代表する民謡の一つとして知られる。

正調 大漁節』 千葉県民謡

一つとせ 一番づつに積み立てて 川口押込む大矢声
二つとせ ふたまの沖から外川まで つづいてよせ来る大鰯
三つとせ 皆一同にまねをあげ 通わせ船のにぎやかさ
・ ・・
・ ・・
十とせ 十をかさねて百となる 千をとびこす萬両年


銚子の隣は「飯岡町」である・・、

利根川筋は「東海道」や「上州」と並んで国内でも三大博徒の地と言われている。 

この辺りは「」が無際限の獲れるところであり、鰯は食料以外にも畑などの肥料など、その利用価値は多い。 
元々が水運の地でもあり、物や金が動く。 
こんな場所に彼等は群がり、博徒や親分衆が目を付けつたのである。 
そこには特殊な人間関係が生じ、義理や人情と言った風土を作り上げていったのも確かであろう。


時は江戸天保時代、利根川沿いの江戸へ行き交う船で賑わう地域、相模の国の出身「飯岡の助五郎」は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、九十九里の飯岡を根拠に博徒の親分としても下総一帯に勢力を誇っていた。 
しかも、博徒でありながら、十手持ちでもあった。

一方、利根川沿いの東庄(とうのしょう)の「笹川の繁蔵」は、代々醤油と酢の醸造で功を成した村きっての物持ちでありながら、笹川の賭場を仕切り、下総一体に勢力を示し笹川一家を張る侠客でもあった。 

繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいない。 
お互いの勢力範囲が近接している所から、両者の間には小競り合いが続き互いに反目しあっていた。
そして天保年間、飯岡と笹川が遂に大利根河原での果し合いが始まったのである・・!!。

浪曲や講談でお馴染みの御存知・「天保水滸伝」は、飯岡助五郎と笹川繁蔵、二人の侠客の勢力争いの物語である。

浪曲・『天保水滸伝』 玉川勝太郎

♪♪♪・・・♪♪♪・・・♪♪、
利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟
ひとめ関の戸 叩くは川の
水にせかるる 杭などに
恋の八月 大利根月夜
佐原囃子の 音も冴え渡り
葦の葉末に 露おく頃は
飛ぶや、蛍のそこかしこ
潮来あやめの なつかしさ
わたしゃ九十九里 荒浜育ち
と言って鰯の子ではない
義理にゃ強いが 情けにゃ弱い
されば天保十二年、抜けば玉散る長脇差
赤い血抹を しとどに浴びて
飯岡・笹川両身内
名代ならりける 大喧嘩
伝え伝えし 水滸伝
・・・・・・
♪♪♪・・・♪♪♪・・・♪♪、


次回は、九十九里・「伊能忠敬



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2010年7月15日木曜日

日本周遊紀行(118)銚子 「大利根・坂東太郎」

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日本周遊紀行(118)銚子 「大利根・坂東太郎」



間もなく太平洋に注ぐ利根川水域、その河口に架かる銚子大橋。 左は旧橋が老巧化のため2010年度完成の新大橋



大利根と言われる「利根川」は・・、


雨が激しく降る中、朝食を摂るのも忘れて、水郷道路から国道124号へ飛び出した。
朝の町並みは、まだ静まりかえっている。
有難い事に、またまた24時間営業の「吉野家」を見つけ、朝食に有り付いた、定番の納豆定食である。

時折、利根川の大きな河川が眼に入る。 ここは「波崎町」である。 
波崎町は大河・利根川と太平洋に挟まれた細長い街で、砂質土壌に発達した町であるり、延々20kmにも及ぶ波崎砂丘は、太平洋から吹き付ける風によって微妙に姿を変える。
即ち、「風紋」と呼ばれる風の芸術が見れる処でもある。


悠々と太平洋に注ぐ大利根の大河口付近で銚子大橋を渡る。 
延々1450m、川の水面上に架けられた橋としては、日本一の長さだとか。

この「利根川」は全長こそ約322kmで、信濃川に次いで日本第二位であるが、流域面積は日本一である。 



ところで利根川の源流は、日本列島の脊梁山地の一部である三国山系で、上越国境山地の最北部・巻機山(まきはたやま:1967m・)と平ヶ岳(2141m)の両百名山を東西に抱えた最北端にある「大水上山」(おおみなかみやま:1834m)の南面の雪渓であるという。

自称、山屋と称していた小生ではある・・、

因みに、この山に登るには上州側からだと、利根川を数泊かけて源流域を遡登するということだが、このコースは急登につぐ急登で体力がものをいう世界である。 
相当なアルバイトが強いられるのを覚悟して登ることが肝要であろう、

小生は無論この山域には至っていない。 
急な沢歩き、尾根登りを辛抱強く行けば、右側に上越国境の山々が、左側には一際雄大な「越後三山」や尾瀬の山々が美しい姿で眼前に展開し、苦しさを紛らわせてくれるという。 
頂上付近は、緑豊かな笹原の天上の楽園、別天地が展開し、360度の雄大な風景を独り占めでき、満足感は計り知れないものがあるという。

坂東太郎・大利根は、この「大水上山」の三角雪渓から滴り落ちる雪解けの水、最初の一滴から始まるのである。



実は、利根川の水源は長い間、謎で、明治、大正期に2回水源探検を実施し、水源は刀根岳(大水上山)と確認したが、源流部を解明するに到らなかったという。 
昭和29年(1954)、第3回利根川水源調査団がようやく利根川の水源は、標高1,834mの大水上山の三角形の雪渓であることを突き止めたという。
人々が入山して後、水源を見つけるのに実に60年の歳月がかかったわけである。
 
その実情は、カモシカも避けて通るといわれるほど急峻で危険な箇所が多かったという。 
尤も、上越国境の山々は日本一急峻な山岳、岩場として、岳人の間でよく知れる処でもある。 
特に、越後側は比較的のびやかなのに対して、南面にあたる上州側は、谷川連峰の一の倉沢、マチガ沢、幽の沢に見られるように大絶壁が連なり、総じて峻険な地帯となっているのである。

利根川水源が新たに発見された頃、世はある種の登山ブームに差しかかった時期でもあった。そして、この奥利根地方はも登山家のあいだでは、どちらかと言えば沢歩きが主流だという。


奥利根病』というのがあるらしい。
奥深い現流域は夏でも腰まで水に浸かる大変な沢登りだが、又行きたくなるという「再発病」である。 
こんな時期、とある女性の山愛好家が利根川現流域に魅せられ「利根川源流讃歌」を作っている。


利根川源流讃歌

遥か彼方 澄みわたる空のもと
上州最北端 利根川水源地
大水上山の三角雪渓
太古からの 雪解け水が
尽きることなく 湧き出すところ



河口にいるのに、山奥の水源の話になってしまったが・・、

ところで、利根川は「坂東太郎」(ばんどうたろう)の異名を持ち、「筑紫次郎」(九州・筑後川、「筑紫三郎」といわれる場合も)、「四国三郎」(吉野川・「四国次郎」といわれる場合も)とともに日本三大暴れ川の一つに上げられる。  

名称のについては、いくつかの説があるが、アイヌ語の「トンナイ」に由来するなどが有力とされ、「トンナイ」は巨大な谷を意味するという。 なお、利根川の名称が出てくる最初の文献「万葉集」には、「刀禰(トネ)」と記されているという。


鬼怒川や渡良瀬川(わたらせがわ)など名だたる多くの支流をもち、中下流域の千葉県最西北端の関宿町(現野田市)、埼玉県五霞町辺りでは、利根川本流を「江戸川」に分流して、これまた日本一の関東平野の大きな流域を潤し、首都圏の上水道を支えている。

又、水力発電としても利根川は有力な河川であり、上越国境の群馬県も発電事業の促進を図り、五十里(いかり)・川俣(かわまた)・矢木沢(やぎさわ)・藤原・草木(くさき)など多くの多目的ダムが築かれ,県内の多くのダムに発電所を建設して電力需要の確保を図っている。 
これら総合開発によって利根川は、各県と共有しながら首都圏の水需要と電力需要に欠かせない「日本の大動脈」となっている。



ところで、かつては利根川の河口は東京湾に注いでいたらしい。 

それに、今では利根川の支流となっている渡良瀬川や鬼怒川も、かっては独立した河川であったという。
特に、江戸(現在の東京)に政治の中心が移ってからは、利根川の治水は最重要課題の一つであった。


江戸幕府は、食糧を賄うための新田の開墾、舟運の開発と安定化、水害の軽減、飲料水の確保などを目的として、利根川を渡良瀬川筋に、更に常陸利根川筋に・・・と、少しずつ東に付け替える大工事を実施している。 
治水上の関係で最終的には利根川の本流、流路が銚子方向に確定したのは明治時代に入ってからであった。 
この川の流れを強引に変えて、銚子から太平洋に流すようにした大事業は、世に云う「利根川の東遷」と呼ばれている。 
その歴史は、徳川家康が江戸入府してから4年後の1594年に開始されたと記録に残り、最終的な拡幅は明治期になってからとか。 

流域は東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、埼玉県の1都5県にまたがり、流域内には約1,200万人もの人口を擁し、利根川はその基盤となる生命の水を常に与え続けているのである。


引き続き「銚子



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2010年7月14日水曜日

日本周遊紀行(117)潮来 「水郷と潮来節」

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 日本周遊紀行(117)潮来 「水郷と潮来節」 



水郷潮来の中心部・前川あやめ園

♪♪「潮来花嫁さんは舟でゆく・・」



「潮来出島の 真菰(まこも)の中に・・、」の潮来節は・・、

昨夜は「道の駅・潮来」で車中泊となった。
夜半中、雨の音に悩まされながら、寝不足のままの起床となったが周囲を見渡すと、雨に煙る中にも水の郷らしい雰囲気が感じられる。 

そう、ここは「水郷潮来」であった。 
潮来は南に広大な霞ヶ浦、北浦を控え、近くに利根川と外浪逆浦(そとなさかうら)、常陸利根川に挟まれ、すぐ横に前川が流れる、まさに水の地帯である。 
昔は陸の道より、水運、水の道として栄えたといわれ、江戸時代に奥州各藩の産物を江戸に運ぶ中継港としての役割を果たし繁栄した。 
現在はこの前川下流から、常陸利根川を挟んで水郷観光の中心をなしている。



カスリのモンペに潮来笠をかぶった女船頭が操るサッパ舟と呼ばれる舟に乗って、水路をゆっくりと行き来する。 
白無垢の花嫁さんが嫁ぎ先へ舟で行く情景を、「潮来花嫁さんは舟でゆく・・、」の歌でも親しまれ、昔ながらの風情を今でも残し、水郷の情緒が味わえる場所柄なのである。 

アヤメの咲く町としても有名で、5~6月には「前川あやめ園」を中心とした3箇所の「あやめ園」に、500余種100万万余株の”あやめ”が咲き乱れ、町が活気づく。


茨城が生んだ詩人、野口雨情の「船頭小唄」もこの地を歌ったものという。 

船頭小唄』 野口雨情(詩) 中山晋平(曲)

己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
同じお前も かれすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒




 『 潮来出島の 真菰(まこも)の中に
         菖蒲(あやめ)咲くとは しほらしや
 』

と「潮来節」にも唄われている。

潮来町の恒例行事、「あやめ祭り」や「潮来祇園祭り」には盛んに潮来節が唄われ、中でも恒例になった「潮来節おどりの競演」は唄と踊りが競演するコンテストで年々盛んになっているとか。



水郷潮来は、古くから江戸と東周りの東北地方、西回りの瀬戸内を結ぶ海上・ 内陸水運の中継港として栄えた。 
この地は、多くの商人や旅人が集う、にぎやかな宿場町であり、旅心を癒す三味の調べが流れていた。
潮来節はそんな旅人の心を捉え、江戸時代に大流行したといい、水郷潮来の回船によって日本全国に広まったという。 
遠くは阿波踊りで知られる徳島の「よしこの節」や「佐渡おけさ」のルーツは潮来節だともいわれる。 
又、江戸唄の三味の節回しを重んじた「都都逸」(ドドイツ・粋歌)や「端唄」(ハウタ・はやり唄)も元唄は「潮来節」といわれるという。 

津軽・南部地方の巫女の名称である「イタコ」(特に恐山における霊媒者)の名は、こちらの地名から起こったとされ、「口寄せ」(巫女などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること)の際に踊るのは「潮来おどり」が元になっているという。



潮来節」に見られるように古来、七と五という語数は日本人・日本語の感性、語感に合うといわれる。
言葉遊びとして既に平安初期には「短歌」としての、一つの文化を形造り、江戸時代には一般庶民の人々が、「洒落」や「」な言葉遊びとして十分楽しんでいたという。 
七七七五の語調も同様で、「述べて」、「語って」、「重ねて」、「崩す」といわれ、最後の五音で粋にあきらめる感覚で、「潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しおらしや」 という「潮来節」が大元になっているのである。 


この歌詞が多いに生かされているのが、囃子詞(はやしうた)といわれる都都逸(どどいつ)・端唄(はうた)・小唄・俗曲(ぞっきょく)と言われるものである。 
この七七七五は、実は近世歌謡調(流行歌)の原型でもあるという。 

もっとも今の若者の間では、語形に捉われない語り調、話し調が主流ななっているようだが・・?。 

イヤハヤ「潮来節」は富んだ広がりが有るもんです。



都都逸』 四選

「口でけなして 心で褒めて 人目しのんで 見る写真」

「遠く離れて 会いたいときは 月が鏡に なればよい」

「恋し恋しと泣く蝉よりも 泣かぬ蛍が身を焦がす」

「櫻という字を よくよく見れば 二階の女が 気にかかる」

(2貝の女が木にかかる・貝=女=・・)



端唄』 二選

梅は咲いたか

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳やなよなよ 風しだい
山吹や浮気で 色ばっかりしょんがいな



奴さん

エー奴さんどちら行く ハアコリャコリャ
旦那お迎えに さても寒いのに供揃い
雪のセ降る夜も風の日も サテ お供は辛いね
いつも奴さんは高端折 アリヤセコリャセ
それもそうかいな


次回は「銚子」 




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2010年7月13日火曜日

日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」

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 日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」 




鹿島神宮の要石宮



「鹿島神宮」の要石宮について・・、

大鳥居をくぐり、参道をまっすぐに東へ歩くと赤い楼門が構えている。 

楼門内、参道の右手に拝殿があり、拝殿の後方に本殿、御神木、鏡石と並ぶ。 
更に、参道はまっすぐに奥に延び、突き当たりに奥宮がある。 
奥宮から左手へ降りていくと、御手洗池、右手奥へ進むと「要石」(かなめいし)が祀られている。

要石社は、鹿島神宮を地震や津波から除ける神様であることは、余り知られていない・・?、神社参道の最奥に奥宮があり、そこの「要石宮」は地中の鯰(なまず)を押さえている・・、と伝えられ、震災除けの神といわれる。
実際、日本の各地に要石神社があって、震災除けの霊験があると伝えられている。 


鹿島市のすぐ南、水郷の地である千葉県香取市香取(佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生)に香取神宮(かとりじんぐう)が鎮座している。
下総国一宮で、日本全国に約400社ある香取神社の総本社であり、祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)である。
前に紹介した鹿島神宮の武甕槌神と共に日本書紀・古事記にでてくる重要な神で、出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変活躍した神である。

この二つ神社に共通しているのが「要石(かなめいし)」である。
この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜き取ることができないとされ、鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしているといわれる。
昔、水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われる。

この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきたとされる。
昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれている。
このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれている。
ただ、安政の大地震(1885年10月)では多少の被害が出たという、この時は地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話は一応納得である。



 『 揺ぐとも よもや抜けじの 要石 
            鹿島の神の あらん限りは
 』


大昔は地震は、地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようで、その蟲がいつのまにか地震を予知できる「なまず」に置き換えて考えられるようになったという伝承もある。



小生の知ってるもう一つに、旧東海道の宿場・沼津の先に「原」の宿が在る。 
今の東海道線の原駅近く「千本松原」で有名なところだが、この松原の一角に「要石神社」というのがある。 
東海地方を襲った安政の大地震の時、東海、関東地方は地震と津波により大災害を発生させたが、ここ「原の宿場」は地震、津波とも全く無害だったと言われる。 
鹿島、原には要石といわれる大岩魁が、地表露出部こそ小さいが地中部では連なっているともいわれる。

昨今、東海、関東地域における地震予測が公表されているが、一度、原の「要石神社」にも、お参りしなくてはと思うが・・。


蛇足ながら・・、

実は小生、西日本周遊の旅に出て間もなく、千本松原のこの千本街道を通っていたが、残念ながら要石神社のことは記憶の外にあってお参りしていなかったのである。 
あの時は当地でも名の有る松蔭寺という古刹に立寄ったのであった。 ところで、拙宅の檀家寺は臨済宗妙心寺派で京都の妙心寺に本山を置くが、この禅宗・臨済宗の寺院を起こしたのが当地出身で臨済宗「中興の祖」といわれる「白隠禅師」であり、この地域の原駅近くの「松蔭寺」の出身でもある。



 『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり 
             富士のお山と 原の白隠
 』

と詠われ慕われている。

当地で生まれ、幼少より聡明で15歳で松蔭寺にて出家、19歳で諸国行脚の旅に出て修行を重ね、やがて五百年に一人の名僧と言われる臨済禅・中興の祖と仰がれる。 
明治天皇より「正宗国師」の諡号を送られている。


次は水郷の里・「潮来」



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2010年7月12日月曜日

日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の祭神」

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 日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の祭神」 



「諏訪大社」でも述べたが、「武甕槌神」(タケミカヅチ)とはどの様な神であろうか・・??

「古事記」における神話の「イザナギ」、「イザナミ」の「神産み」において、伊邪那美命(イザナミ)が生んだ火の神・火之迦具土神(ヒニカクヅチノカミ)が元でイザナミは火傷で死んでしまう。
愛する妻を失ったイザナギはその怒りから、迦具土神(カクヅチ)の首を十拳剣(トツカノツルギ:神話での剣)で斬り落としてしまう。 
その時に飛び散った火神の血(赤い焔)から刀剣三神の(甕速日神:ミカハヤヒノカミ、速日神:ヒノハヤヒノカミ、それと武甕槌神:タケミカヅチ)が生まれた。

迦具土神は火雷の神ことで、雷神、剣神としての性質を持つ。 
武甕槌の「タケ」は猛々しさを表し、「ミカ」は神秘的でいかめしい事を表しているとい。 ミカを「甕(土器)」と見る説もある。


記紀(古事記、日本書紀)の「国譲り神話」(大和の神が、出雲の神を屈服させ、国を奪い取る物語り)によれば、荒ぶる神々の平定のために高天原の神々を葦原中国に派遣したが、ともに大国主神に従って復命せず失敗を重ねる。
天照大神(アマテラス:伊勢神宮)は業を煮やし、そこで、天鳥船神(アメノトリフネ:息栖神社)、武甕槌神(タケミカヅチ:鹿島神宮)と経津主神(フツヌシ:香取神宮)を派遣することにした。(何れも由緒ある「東国三社」の神々)

出雲の稲佐の浜に降り立った彼らは、十拳剣を波間に突き立て、その剣先に胡座をかいて大国主神(オホクニヌシ:出雲大社)に国譲りを迫った。 
しかし、大国主神は事代主神(コトシロヌシ:美保神社、恵比須神社)に、この国の全権を任せていると答えた。 
武甕槌神は、天鳥船神を使って事代主神を連れ戻し、国譲りを納得させた。 
しかし、それに納得しなかったのが建御名方神(タケミナカタ・大国主の子、諏訪大社)であり、暫く睨み合いが続いたが、やがて戦いへと発展してしまう。 
だが力の差は歴然であった。 武甕槌神の手は氷柱や剣先に変化し、建御名方神を追い込んで行く。
建御名方神は逃げ出すが、執拗に追跡し信濃国の諏訪湖まで追いつめ、遂に屈服、服従させたのである。
それらを大国主神に伝えると、「もはや何も問題はないでしょう。この国(出雲)を差し上げます」と答えたという。



これが「国譲り神話」の一幕であるが、古代史の観点から見ると、武甕槌は元々常総の「土着神」であったとされている。 
武甕槌神の鹿島神宮は、大和政権の東北遠征において重要な拠点だったことから、神話同様、重要な置位に昇格したといわれる。 
鹿島神宮の分社が、東北地方に集中していることからも伺える。

武甕槌神が葦原中国平定のため派遣された際、建御名方神が、「然欲爲力競よし、それなら力比べをしようぜ・・!)」と言った後、武甕槌神の腕を掴んで投げようとした描写がある。
武甕槌神はその際、手をツララへ、またツララから剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆に武甕槌神は、建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったという。 
この事象が、以降の「大相撲」の起源になったとされる伝説がある。



大化改新で有名な中臣鎌足(藤原氏の祖・死の直前,天智天皇から最高の冠位と「藤原」という姓を賜った)の出身も鹿島であり、彼を祖とする藤原氏は武甕槌を氏神として篤く信仰している。 

奈良期の768年に、藤原不比等(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣、藤原鎌足の次男)が武甕槌神を大和の国に勧請し、春日大社の第一殿に祀った。 
鹿島神宮は武芸の神としても有名で、剣術の道場にはよく鹿島大神と書いた掛け軸を飾ってある。


引き続き、「鹿島神宮



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「古事記」における神話の「イザナギ」、「イザナミ」の「神産み」において、伊邪那美命(イザナミ)が生んだ火の神・火之迦具土神(ヒニカクヅチノカミ)が元でイザナミは火傷で死んでしまう。
愛する妻を失ったイザナギはその怒りから、迦具土神(カクヅチ)の首を十拳剣(トツカノツルギ:神話での剣)で斬り落としてしまう。 
その時に飛び散った火神の血(赤い焔)から刀剣三神の(甕速日神:ミカハヤヒノカミ、速日神:ヒノハヤヒノカミ、それと武甕槌神:タケミカヅチ)が生まれた。

迦具土神は火雷の神ことで、雷神、剣神としての性質を持つ。 
武甕槌の「タケ」は猛々しさを表し、「ミカ」は神秘的でいかめしい事を表しているとい。 ミカを「甕(土器)」と見る説もある。


記紀(古事記、日本書紀)の「国譲り神話」(大和の神が、出雲の神を屈服させ、国を奪い取る物語り)によれば、荒ぶる神々の平定のために高天原の神々を葦原中国に派遣したが、ともに大国主神に従って復命せず失敗を重ねる。
天照大神(アマテラス:伊勢神宮)は業を煮やし、そこで、天鳥船神(アメノトリフネ:息栖神社)、武甕槌神(タケミカヅチ:鹿島神宮)と経津主神(フツヌシ:香取神宮)を派遣することにした。(何れも由緒ある「東国三社」の神々)

出雲の稲佐の浜に降り立った彼らは、十拳剣を波間に突き立て、その剣先に胡座をかいて大国主神(オホクニヌシ:出雲大社)に国譲りを迫った。 
しかし、大国主神は事代主神(コトシロヌシ:美保神社、恵比須神社)に、この国の全権を任せていると答えた。 
武甕槌神は、天鳥船神を使って事代主神を連れ戻し、国譲りを納得させた。 
しかし、それに納得しなかったのが建御名方神(タケミナカタ・大国主の子、諏訪大社)であり、暫く睨み合いが続いたが、やがて戦いへと発展してしまう。 
だが力の差は歴然であった。 武甕槌神の手は氷柱や剣先に変化し、建御名方神を追い込んで行く。
建御名方神は逃げ出すが、執拗に追跡し信濃国の諏訪湖まで追いつめ、遂に屈服、服従させたのである。
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これが「国譲り神話」の一幕であるが、古代史の観点から見ると、武甕槌は元々常総の「土着神」であったとされている。 
武甕槌神の鹿島神宮は、大和政権の東北遠征において重要な拠点だったことから、神話同様、重要な置位に昇格したといわれる。 
鹿島神宮の分社が、東北地方に集中していることからも伺える。

武甕槌神が葦原中国平定のため派遣された際、建御名方神が、「然欲爲力競よし、それなら力比べをしようぜ・・!)」と言った後、武甕槌神の腕を掴んで投げようとした描写がある。
武甕槌神はその際、手をツララへ、またツララから剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆に武甕槌神は、建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったという。 
この事象が、以降の「大相撲」の起源になったとされる伝説がある。



大化改新で有名な中臣鎌足(藤原氏の祖・死の直前,天智天皇から最高の冠位と「藤原」という姓を賜った)の出身も鹿島であり、彼を祖とする藤原氏は武甕槌を氏神として篤く信仰している。 

奈良期の768年に、藤原不比等(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣、藤原鎌足の次男)が武甕槌神を大和の国に勧請し、春日大社の第一殿に祀った。 
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