2010年7月3日土曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「温泉と斉太郎節」

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日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「温泉と斉太郎節」



松島の温泉;「湯の原温泉・霊泉亭」 




松島に“おんせん”・・??、ハイ・・「湯の原温泉」です・・、



瑞巌寺を後にして、賑わう海岸通りでチョット早い夕食を摂り、その後、予約しておいた「湯の原温泉」へ向かった。

仙石線の松島海岸駅の横を通って、すぐ裏手には松島の喧騒とは打って変わって田舎の田園地帯が広がっていた。 
その田んぼと小山に囲まれた静観な地に湯の原温泉:「霊泉亭」があった。 
重厚な二階建ての木造建築で昔ながらの佇まいを残す湯治宿である。
外観は大地主の旦那屋敷を想像してしまい、まるで木造建築の文化財のような造りである。
やはりというか、創業は江戸後期頃で200年以上の歴史があるという。

宿といっても、宿泊している人は長湯治に来ている人がほとんどで、主にお年寄り達が長めの湯治に来ているらしい。
中には、殆ど住んでるような感じのご年配の方々も見受けられる。 

他にも、地元の日帰り入浴客も次々と訪れているようである。
そう云えば、宿泊の予約をしようと電話をした時宿の人に、「あんたも湯治の人かえ・・?」などと聞かれたっけ。


自炊専門の宿で、飲食物は勿論、寝具持参もOKというのは、如何にも湯治宿らしい。
自炊が基本の宿ならではで、古くから八百屋、魚屋、牛乳屋、呉服屋など様々な行商人が定期的に訪れていて、今日も生鮮物を積んだ車が、玄関前で営んでいた。 

今日は、丁度リニューアルされたと思しき真新しい部屋に案内された。
畳 洗面所は新しくなっていたようだが、夏場でもエアコンなどは無いようで、蚊取り線香やハエタタキの持参も必要かも・・?。 


温泉は単純冷鉱泉の沸かし湯、透明のサラサラの湯のようだが、浸かると熱い・・!!。 
後で女将に「女将さん、湯船の湯が熱すぎるヨ・・」と一言いうと、「職人さんが、いつもヌルイ、ヌルイと言うんですよ・・。」とネジッ返された。 

そういえば地元の勤め帰りに職人さん達も風呂入りに来ていたようだ。 
ともあれ湯治場なのに、たった一泊だけで申し訳ない気持ちはあるが、一泊無食3000円はまずまずで納得であった。


ところで、源泉が湧き出たのは千年以上前のことで、慈覚大師(円仁)が湯を起こしたとも伝えられる。
「円仁」といえば先にも記したが、瑞巌寺を勅願寺として開山したのが天長5年(828年)とされているので、或るいわ時期的にも符合しているのかもしれない。


住所:宮城県宮城郡松島町松島字湯の原
霊泉亭:022-354-2323
泉質:単純冷鉱泉(無色透明の沸かし湯)
旅館:1件
素泊り:3000円
日帰り入浴:400円
(2005年現在)



松島と言えば「斉太郎節」でしょう・・、

松島の サーヨー瑞巌寺ほどの 寺もないトエー・・」、お馴染み「大漁唄い込み」(斉太郎節)である。

松島沿岸の漁師たちが鰹漁に出る時の折り、海の神に大漁を願って唄い、大漁の際には湾内に漕ぎ戻る時に、それぞれ唄ったという。 
歴史的には、歳徳神(としとくじん・さいとくしん、陰陽道でいうその年の福徳をつかさどる神)という神を祭る「祝い唄」として用いられ、これが「サイトクシン節」に、更に「サイタラ節」になり、とある職人の斉太郎の伝説と結び付けて「斉太郎節」になったといわれる。

昭和6(1931)年、NHK仙台局の開局記念の民謡大会の時に始めて発表、日本の海を代表する唄となった。 


大漁唄い込み』(斎太郎節) 宮城県民謡

エンヤトット エンヤトット
松島の サーヨ瑞巌寺ほどの
寺もないトエー
アレワエーエエトソリャ大漁だェー
(以下、繰り返し)

前は海 サーヨ後ろは山で
小松原トエー
(以下、繰り返し)


引続き「日本周遊紀行」は関東地区で千葉、東京から神奈川・厚木へ参ります。
以降もお楽しみに・・!



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2010年7月2日金曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「瑞巌寺の高僧」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「瑞巌寺の高僧」 



写真:瑞巌寺の法身窟


瑞巌寺には「真壁平四郎」という高僧がいた・・、



法身窟」(ほっしんくつ)とは、北条時頼が諸国行脚中この場所にて法身和尚真壁平四郎)と出会った岩屋である。

瑞巌寺には歴代高僧の内、四大高僧がいたといわれ、鎌倉期の「法身禅師」という禅僧もその一人であるという。 
俗名を「真壁の平四郎」といい、今でも語り人となって登場している。 


講談 の「伊達政宗より真壁平四郎のくだり」や浪曲「真壁平四郎伝」 でもお馴染みである。

『 平四郎が政宗の中間(ちゅうげん:中世の公家・武家・寺院などに仕える従者で、侍と小者との中間に位する。近世には武家の奉公人で、雑役に従事、足軽と小者との中間に位する)として働きながらも、ちょっとした誤解から政宗の怒りを買い、その無念を晴らすために長い苦労の末に立派なお坊さんになる・・、 』というお話である。

出身地は、常陸国真壁郡(茨城県真壁郡細野町)でその名が付いた。 



若年の頃、城主・伊達正宗の下僕を勤めていたが或る宴のあった冬の日、履物を懐で温めて城主を待っていたところ、履物を尻に敷いていたと誤解され、額を割くほどに激しく撲られた。 
これをきっかけに平四郎は政宗のもとを去り、出家して後に高野山や中国・宋に渡って修行を積んだ。 
帰国後、京都・妙心寺の住主となり、更に諸国遍歴の旅中、松島の延福寺(瑞巌寺)に滞在し、岩窟にて修行していたといわれる。 


その時、鎌倉執権・北条時頼が東国遊行中、延福寺(瑞巌寺)に立ち寄り、時頼が岩窟に入って休息していた時、岩窟には先住の修行僧がいて二人は意気投合し、法談問答などで時を重ねたという・・。

この岩窟での出会いから10数年後、縁あった「執権・北条時頼」に援助を戴き、法身禅師による臨済宗・円福寺を再建したという。
あの時、法身禅師が禅修業した岩窟を「法身窟」といい、今でも参道脇に現存している。 

その後の円福寺(瑞巌寺)は隆盛を極めたという。


次回は松島・「湯の原温泉と斉太郎節



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2010年7月1日木曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「瑞巌寺」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「瑞巌寺」 






写真上より:瑞巌寺参道、本堂、石窟群



松島を一段と輝くものにしているのが「瑞巌寺」であろう・・、


先ず、「瑞巌寺の歴史」について・・、

海岸の五大堂に対して、国道を隔てて「瑞巌寺」がある。
年輪を重ねた大杉木立の真っ直ぐな参道を行くと、大きなお城の様な御堂が在った。

瑞巌寺」(ずいがんじ)は東北地方切っての名刹であることは周知であるが、寺の名称は初め延福寺として開山している。 
後に臨済宗・円福寺となり、現在の松島青龍山瑞巌円福禅寺すなわち「瑞巌寺」となったという。

執権統治者も時代によって推移し、奥州藤原二代・基衡から執権北条時頼、仙台藩藩祖・伊達政宗らの名を連ねる。 
創建開祖は平安初期「円仁禅師」(慈覚大師)によるものである。
「円仁」は下野(栃木県)の出身で、少年期に比叡山・延暦寺に入山し、伝教大師・最澄の弟子になっている。 
その後中国は唐に渡り、五大山で9年間修行を積んでいる。

帰国後、延暦寺の座主となり、諸国遍歴の後、71歳で没しているが、直後、生前の業績によって、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の法号が授けられた。

東国巡礼の旅に出た時を縁に日光山、立石寺、中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、恐山の円通寺、そして、ここ瑞巌寺など、開祖(または中興)とされる有名古刹が数多くある。

平安末期の奥州合戦の際に瑞巌寺(当時は延福寺)は、頼朝の命により義経(源頼朝の実弟)を三千の衆徒で護摩を焚いて呪詛 (じゅそ:うらみに思い相手に災いが起るよう神仏に祈願すること。まじない、のろい) したと伝えられている。 
そしてその後、奥州平泉の藤原家は陥落している。


瑞巌寺(円福寺)が最も隆盛を極めたのは室町期で、当時の大伽藍の規模は今の松島海岸と周辺山域一帯がそうであり、東北最大の禅院として栄えたという。
その後は次第に衰え、戦国末期の頃は極度に荒廃していたという。
現在の瑞巌寺の中心は、その当時の境内の北西隅の一角にすぎないとされる。


鎌倉期より縁のあったのは伊達家であり、戦国期の伊達政宗が再建を決したのは慶長9年であった。
正宗、自ら縄張りをして円福寺の再興に着手し、足掛け5年の歳月をかけて今の瑞巌寺が落慶している。
造営にあたっては、紀州熊野から海路で用材が運ばれ、京都や根来衆(ねごろ)から名工130人が集められたという。

本堂内部は桃山様式の粋を尽した作りで、彫刻や襖絵は絢爛豪華、総欄間の彫刻は極彩色で飾られている。 
堂内の袖部(そでぶ:本堂、礼拝堂以外の部分)は十数の部屋が仕切られている。 
その為、巷(ちまた)では瑞巌寺は伊達家・仙台城(青葉城)の第二の居城、仙台藩の軍事要塞の出城ではないかとも云われていた。

正面に位置する松島湾は暗礁(平均水深10mとも・・)が多くあるため、外来者にとっては航行が困難な海域であるとされた。
そのため、江戸時代には伊達政宗によって暗に「軍港」と見なされ、瑞巌寺を始めとした伊達家直轄施設が軍事施設としも多く建設されていたという。

因みに、松尾芭蕉が、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を見回っていることから、隠密であるという風説もある。
その為か芭蕉は風光明媚な松島を愛でるどころか、この界隈の施設巡視に夢中になり、松島の美景の一句も詠めなかった、とするのは憶測のし過ぎか・・?。


次回は、瑞巌寺の高僧




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2010年6月29日火曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「坂上田村麻呂」(追記)

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日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「坂上田村麻呂」(追記)


写真、手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の○印が清水寺
(Asahi・comより)



前回からの続き(追記)です・・、

最近、京都の「坂上田村麻呂」の遺構が再確認されたという。

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から西野山古墓であることが特定されたという。 

京都大学の吉川真司・准教授(日本古代史)が、「清水寺縁起」のなかに、田村麻呂の墓地としての記述がある「太政官符」(当時の公文書が残っているのではなく縁起に書き写したもの)を再発見し、確認したとされている。


京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されている。 
内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏の根拠地である点からその一族の誰かと推定されていた。


今回、田村麻呂が創建したという「清水寺」(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」の中に、弘仁2(811)年の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題が記されていたといい、それによると行政の最高機関が、土地を管理する民部省に送った文書の中に故・田村麻呂の墓地に関する記載がある。
山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。

その場所は今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。 
尚、「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述については注目されていなかったという。


田村麻呂は平安期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。 
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷(えみし)の勢力が強かった事が伺えるのである。

同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。


西野山古墓は、清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
古墓は8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致している。 
既に大正8年に墓穴が見つかり、出土しているという。

こうした研究から時代と位置と身分が一致し、「坂上田村麻呂」の墓と特定したという。


又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。


この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。 

遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。


次には、松島の大伽藍「瑞巌寺




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日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「五大堂」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「五大堂」 






写真2枚:松島・五大堂





松島の「五大堂」は、坂上田村麻呂が創建した・・、



今日は10月3日の日曜日であった。 
雨の日とはいえ、さすが天下の松島である、大勢の人が巡っている。
赤い狐狸橋(下が透けて見えるので、透橋ともいうらしい)を渡ると「五大堂」である。如何にも歴史を感じさせる瀟洒な建物で、松島の島々を見据えて鎮座している。

平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、毘沙門堂(毘沙門天=四天王の一つ、男の神、戦・勝負の神、北方を守護する神)を建立したのが最初といわれる。

平安初期の828年、慈覚大師円仁が瑞巌寺を開いた際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになったとか。

御堂は桃山様式の美しい木造建築で、下屋部分の周囲に12支の彫刻が施されている。
これは太陽の方向に正面を向いた時、その時刻を表すともいう。   国指定重要文化財



坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)について・・、

奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。
これらの住民は、主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであったのだが。


この頃、時代によって様々な見方も有るが、奥羽の先住民族である蝦夷と大和朝廷との関係は、国と統一と西方文化を広めるため、蝦夷との争乱がしばしば記録に出てきている。
都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく、支配下に収めることに難渋していた。 

そんな中、蝦夷鎮圧と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」である。

朝廷は、坂上田村麻呂を将軍に武装した大軍(”稲作キャンペーン集団”ともいうべき・・?)を派遣し、この時の拠点を一旦、多賀城に置いている。


この時期、田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」の御堂を設えたという。  

今の五大堂である。



彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては、珍しく、いつのまにか津軽の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。
祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。

因みに、この時代に都は長岡京から、延暦13年(西暦794年)、京都の「平安京」に遷都されている。
天皇は桓武天皇の時期であり、その3年後に蝦夷は平定されている。 
そして坂上田村麻呂が、初めて「征夷大将軍」という称号を授かった時でもある。



田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢の最後の皇帝・献帝の孫ともいわれる)を祖とすると伝わる。 


坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 


田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。 
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の「王政復古」の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。


次回引続き、「坂上田村麻呂」の追記




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01. 15.

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