2010年2月9日火曜日

日本周遊紀行(58)網走 「番外地と遺跡」

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右の石碑は、映画『網走番外地』の記念碑




日本周遊紀行(58)網走 「番外地と遺跡」



網走の番外地と、はたまた「遺跡」です・・、


網走湖」は、北部の網走川を2kmほど経てオホーツク海に注いでいる。
この網走湖に近い網走川の畔に、あの有名な「網走刑務所」がある。


以前、お上さん(妻)と冬の北海道を訪れた時、雪の中の刑務所を見物した。
高倉健の映画ですっかり有名になった網走刑務所も今ではすっかり網走観光の名所になっている感がある。 
観光を目的として観光客が刑務所を訪問するというのは、ここ「網走刑務所」だけかもしれない。


網走川に架かる鏡橋を渡ると、重厚な赤レンガ造りの正門が出迎える、とは言っても受刑者が出入りする門ではなく、今は観光客用のものであるらしい。 
刑務所特有の周りを取り囲む赤レンガの重圧な「塀」は相当な高さがあり一般人は脱獄なんてとても無理だと思われる高さである。 
展示会場、販売店には受刑者が製作した木工製品や小物類や民芸品などをて観光客に販売されている。


看板には「博物館網走監獄」と記載してあるが、元々は「釧路集治監網走分監」として1890年(明治23年)に設立され、網走、旭川の道路工事を行うために受刑労務者を収容するのに開設されたのが始まりであるという。 
大正11年10月に「網走刑務所」と名称が変わった。



明治維新以前、北海道は蝦夷地と呼ばれアイヌの人々が住んでいた。 

江戸期には和人の定住が始まっているが、本格的に開拓されるようになったのは明治維新後に蝦夷地が北海道と名を改められ、北海道開拓使(現在の道庁・赤レンガ庁舎)が置かれるようになってからである。

明治期の日本は、欧米諸国に対抗しようと富国強兵政策を採った。 
そして、国の経済を発展させるには、未開の地だった北海道の開拓が必要不可欠と考えられ、更に南下政策をとる帝政ロシアの脅威から国を守るための軍事拠点としても、北海道は重要な場所であった。 しかし、当時の国内の財政は北海道を大規模に開拓する余裕はなかった。 

そこで考え出されたのが囚人を北海道開拓の労働力として使うことであった。


幕藩体制が天皇制に移行した明治の初め佐賀の乱や西南の役などの反乱が続き、その際に検挙されたいわゆる国賊と呼ばれる政治犯や荒れた世相の中で罪を犯す人々で、国内の監獄には囚人が溢れかえっていた。 
その解決策として、内務卿だった伊藤博文は明治12年に太政大臣に提出した伺書の中で、こう述べたという。 

北海道は未開で、しかも広大なところだから重罪犯をここに島流しにして、その労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えて解放された者は、ここにそのまま永住させればいい』  


開拓の第一歩は、人や物資を運ぶための道路を整備することであった。 


明治23年、網走刑務所の前身となる「網走囚徒外役所」が作られたのも、札幌-旭川-網走を結ぶ中央道路の開削工事に囚人を動員するためだった。
当時の網走は夏場には漁場が開かれていたが、冬は厳しい寒さと流氷に閉ざされる海沿いの小さな集落だった、そこに突如として1300名もの囚人が送り込まれてきたのである。


明治24年、中央道路の建設が開始される。 
この道路は物資運搬のための流通道路と同時に、軍用道路しての役割が重視され、ロシアの南下政策に危機感があった政府と軍部は、網走-石北峠間の約180キロ区間を年内に開通させるよう命じた。

手付かずの原野を切り開く工事は、険しい地形と「」との戦いだったいう。 

そして、昼夜を問わない突貫工事はあまりに過酷で、多くの犠牲者を出すことになった。 
北海道では炭鉱や硫黄鉱山など、危険な場所で囚人労働が行われていたが、しかし、中央道路工事ほど数多くの犠牲者が出た現場はないという。 

囚人たちは命がけで大地を切り開き、今の網走発展の礎となる道路を造ったのであった。その後、過酷な囚人労働は国会で「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきなのか」と追求をうけ明治27年に廃止されたという。 

このように網走刑務所は、北海道の開拓を担った記念の碑的建物でもある。


過去に遡れば以上のような発端があったが、その後、言われるように重罪犯を収容していた。
しかし、現在では初犯をはじめ2~4年刑期の受刑者が収容されているようである。 

そして、この刑務所は嘗ては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われた。

明治の脱獄王「西川寅吉」(模範囚として過ごし釈放)や昭和の脱獄王「白鳥由栄」(脱獄に成功)らが収監された。

又、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画「網走番外地」シリーズの舞台ともなっていることは周知である。 

さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。

その後、なお、映画「網走番外地」シリーズで、所在地が映画の主題になっているが、刑務所の所在地は正しくは網走市三眺地区であり、住居表示では網走市字三眺官有無番地となっていて、やはり番外地なのである。


映画「網走番外地」は1965年頃、東映系で劇場公開されたヤクザ映画で、主演高倉健、監督石井輝男のシリーズとして劇場公開された。 ヤクザ映画のハシリになった映画で、大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇など主演の「高倉健」が熱演、スターダムに駆け上がった映画でもある。 


そして、高倉健唄う「網走番外地」の歌もヒットしている。

網走番外地』 

春に 春に追われし 花も散る
酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮(きすぐ)れて
どうせ俺らの 行く先は
その名も 網走番外地


テイチクから発売されたこの歌は、高倉健の初レコードで、映画の大ヒットとともに、200万枚を超すベストセラーとなった。 
しかし、歌詞に「酒(きす)ひけ」など香具師(やし:縁日・祭礼などの人出の多い所で見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とする者、てきや。)の隠語が使われているため、一時放送禁止になった。

「酒(きす)をひく」は「酒を飲む」、「酒暮れる」は「日がな酒を飲む」という意味である。





番外地」からすぐ近く、湖の東側に小高い丘で標高200m余りの「天都山」がある。山頂に展望施設があって、ここからの眺めは360度ですこぶる良い。 
能取湖や網走湖を眼下に網走国定公園の全容はもちろん、知床半島と阿寒の山々の大パノラマを一望できる。 何よりもオホーツク海の流氷の景観は圧巻であろう。


すぐ北側に「北方民族博物館」がある。
北方地域に共通する衣・食・住・精神文化・生業などをテーマにした展示品があり、又、国指定のモヨロ貝塚遺跡からの出土品、による、オホーツク文化を紹介するコーナー等もある。


度々記したが北海道、特にオホーツク海沿岸には規模大きな古代遺跡が多い。

ここ網走にも国指定史跡の「モヨロ貝塚」(網走市北1条東2丁目)という遺跡がある。

この遺跡は網走湖から流れ出る網走川の河口にある巨大遺跡で、大正の初期この砂丘から大量の貝殻層を発見し、これに混じって土器や石器も出土したという。 
この器はかっての日本人が使用してた縄文土器類とは全く違ったものであり、更に調べるうちにこれは北方系、つまりシベリヤ・カラフトから渡来した物である事が判明した。 
つまり、北海道における「オホーツク文化」の発見であったという。 

モヨロ貝塚の発見には、ひとつのドラマがあった。

実は、この遺跡を発見したのは学者ではなく、理髪師の米村喜男衛(よねむらきおえ・1892~1981)という人物であった。
彼は東京で理髪師をするかたわら、アイヌ文化の研究に没頭する日々を送っていたが、大正2年にアイヌの研究のために網走を訪れた際に放置されたままの貝塚を発見している。 

網走川沿いの急な断面に露出した貝殻層の中には、これまで見てきた縄文系の土器とはまったく違う文様の土器が混じり、周辺を歩くと幾つもの竪穴式住居跡があった。 
彼は最寄村で発見されたことから、この貝塚を「モヨロ貝塚」と名付け、ここに住んでいた人々をモヨロ人と呼んだ。 

今まで見たことも無かった特異な文化を持つ「オホーツク人」(オホーツク文化)の痕跡を見つけた米村は、すぐに網走に移り住むことを決意している。 
米村は理髪店を経営する傍ら、モヨロ貝塚の研究と保存に没頭し、そして、店の奥に山積みにされていった出土品は、希望者に公開されるようになる。

この出土品の置き場が、昭和11年の北見郷土館(現在の網走郷土博物館)の開館につながっていく。

文化財という観念すらない時代に、彼は私財を投じてモヨロ貝塚を研究しながら、収集した3000点以上の考古資料を提供し博物館は開館に至ったという。 


次回は、 知床の玄関口・「斜里」




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2010年2月8日月曜日

日本周遊紀行(57)常呂 「カーリングと遺跡とホタテ」

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日本周遊紀行(57)常呂 「カーリングと遺跡とホタテ」



ホタテと遺跡とカーリングの町・・

広大な「サロマ湖」の東に面して位置するのが「常呂町」(ところちょう)である。

常呂町は、冬季オリンピックの「カーリング」ですっかり全国的に有名になったが、遺跡の宝庫でもある。 又、サロマ湖東岸を中心とした「ホタテ」の水揚げでも全国屈指の地であるそうだ。

「常呂」はホタテと遺跡とカーリングの町です」と町民は誇らしく云うらしい。




又々、遺跡のことであるが・・、

常呂町には常呂川やライトコロ川水系を中心として、町内のほぼ全域に遺跡が広がるという。 
現在のところ、発見された遺跡は128箇所と言われ、町内全体の竪穴住居の数は何と約1万軒、世界一に匹敵するのでは・・といわれる「遺跡の町」である。

中でも国の史跡でもある「常呂遺跡(栄浦第二遺跡)」からは、日本最大である2500軒もの竪穴住居が見つかっているという。 
現在の常呂町の人口が凡そ5000人であるから、縄文期にはそれをはるかに凌ぐ人々が住んでいたことになる、これは驚くべきことである。

常呂町の遺跡の特徴は、日本人類創世といわれる約2万年前の旧石器時代から始まって、縄文、続縄文、擦文とオホーツク文化、アイヌ文化と、あらゆる時代のものがソックリそのまま揃っているという。 

北海道の有史以来の人類の歴史が詰まっているのである。 

しかも常呂川河口遺跡では16に分かれた地層から発見されているため、造られた遺物の変化が時代の変遷に合わせた如くはっきりと判るという。
常呂の遺跡からは、人類継承の文化と文化のつなぎ目を知るうえでの貴重な資料が数多く発見されているといわれる。

町名の由来は、アイヌ語の「トー・コロ」(沼のある所)と言うとおり、水域に縁のあるところである。

常呂の地域はサロマ、能取湖のほぼ淡水の食域と、オホーツク海の流氷を含めた海の食域、そして、黙っていてもサケ・マス類が常呂川を上って来る川の食域がある。 

又、南方の山域、森林帯は野の獣が豊富であり、陸の食域でもある。 

古代の生活者・住人にとって、気象条件さえ考慮に入れておけば、これほど住み易い場所はなかったのではないか・・?。 
常呂町では、日本有数の規模と内容を誇る遺跡を町づくりの柱の一つとし、展示資料や映像で学ぶことができる施設「ところ遺跡の館」や竪穴住居を復元した「ところ遺跡の森」などで、発掘された遺物の整理・保存する施設、遺物の修復作業として見学できるという。 

いずれ、常呂町に行くと北海道の歴史のすべてを目で見ることができるかもしれない。




次にお待たせ、常呂町と「カーリング」のこと・・、

本年(2006年)早々に、冬季オリンピック・「トリノオリンピック」が開催され、日本チームはフィギアスケートの荒川静香氏の金メダル1個のみ・・と、成績不振のうちに終了した。 
(この記録は2007年当初頃に纏めたものです)

そうした中、激しい運動のウィンタースポーツの内で、静かで優美な闘志を醸し出す種目がある・・、その「カーリング」が注目された。
小野寺、林、本橋、目黒、寺田の各氏のが女子日本代表チームとして健闘したことは周知で、7位とメダル獲得には至らなかったが懸命な姿に大きな反響を巻き起こした。

そして小野寺歩、林弓枝、本橋麻里の三選手は常呂町出身なのである。

ところで、本格的にカーリングが普及する発端となったのは北海道で、1980年に道庁がカナダから講師を招いて道内市町村に広めたのがはじまりといわ、常呂町の他士別市や占冠村(しむかっぷむら)なども古い歴史を誇っている。  
こんな中、常呂町は常呂町=カーリングと言われるほど町をあげてカーリングを奨励、推進し、日本で一番カーリングが盛んな町とされている。 

人口が約5000人の常呂町民の内、その6~7割もの人々がカーリング経験者という驚異的数字もある。 しかもこの町には、1988年建設の国内初の屋内カーリング場「常呂町カーリングホール」があり、小学校や中学校の授業の中でもカーリングをやっているとか、そして町内のリーグ戦もあるという。

そんな常呂町に縁が深いカーリングが、1998年の長野冬季オリンピックの際に、日本代表として出場し、その時は出場選手の半分である 10人中5人が常呂町出身という比率であった。

2002年のソルトレーク冬季オリンピックには、全員常呂町出身のチーム 「シムソンズ」が女子日本代表として出場、一躍有名になった。 
その「シムソンズ」をモデルにした映画「シムソンズ」が、2006年2月公開されている。


カーリング (curling)と は、氷上で行われるのスポーツの一つで4人ずつ2チームの対抗戦で行われ、目標とする円をめがけて各チームが交互に8回(4人*2投)ずつ石を氷上に滑らせる。 
そして、石を円の中心により近づけたチームが得点を得る。

これを10回繰り返し、総得点で勝敗を競う。 高度な戦略が必要とされ、その理詰めの試合展開から「氷上のチェス」とも呼ばれる。
15世紀にスコットランドで発祥したとされ、当時は底の平らな川石を氷の上に滑らせていたものとされている。

ところで、あのストーン、小生を含めた俗人は漬物石にちょうどいいと思うが・・?、実は、すごい高価な物だという、16個セットで100万円以上するとも・・!!。



常呂町は、2006年3月5日に北見市、留辺蘂町(るべしべ)、端野町と新設合併し、新しい北見市の一部となった。(住所表記は北見市常呂町)合併後も自治区が設けられ、一定の自治権が認められる形となっているという。



次回は、「網走」


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2010年2月7日日曜日

日本周遊紀行(56)湧別 「廃線と屯田兵」

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日本周遊紀行(56)湧別 「廃線と屯田兵」





紋別の「道の駅」を出ると間もなく「コムケ湖」、「シブノツナイ湖」のすぐ横を通る。
いかにも北海道らしい清々とした地柄であるが、尤も、地図を見るとこの先、巨大な「サロマ湖」、「能取湖」、「網走湖」、「藻琴湖」そして「濤沸湖」とオホーツク海に面していて、同様の風景が展開しているのである。 

オホーツク沿岸の国道238を別名「オホーツク国道」ともいい、雄大な道で大草原、原野の広がりは眼の保養になること受け合いである。 

この先、これら主要な湖の岸辺を行くようになるが。




湧別町、上湧別は概ね湧別川を挟んでいて、ユッタリした家並が広がっている。 
ユウベツ」とはアイヌ語で「鮫の住む川」という意味だそうで、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数の鮫が生息していたことから、この名で呼ばれていたとも言われている。 

北海道の地名・名称が、アイヌ語から発生しているのが大多数有る中、それにしても「鮫が住む川」とは何とも驚きである。


湧別は湧別町、上湧別町と二つの行政域に別れ、上湧別町には中湧別という地域もあるようだ。
湧別町はオホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、東に道内で一番大きな湖であるサロマ湖を擁している。
それに対し「上湧別町」は内陸地域に位置し、海面、湖面には接していないようで、「鮫の住む川」である湧別川の下流域の全域を有しているようである。



昨今の政府号令の「平成の大合併」で湧別町、上湧別そして佐呂間町の合併話が起きたようであるが、今現在は実現していないようである。 


オホーツク国道」・国道238号は、この町域を東西にクランク状に横断しながら佐呂間に至っている。
この国道は、湧別町のシンボルロードと言われる道で、愛称を「オホーツク・リラ街道」と称しているようである。 
町では、このリラ街道を春先から花を楽しめる道路にしようと、平成11年から道路の両端に、町民の皆さんの手で千本桜の並木や湧別町に昔から自生していた「リラの木」(仏語読み:ライラックのこと)を植え、その間隔に花を植栽して「花いっぱい運動」を展開しているのである。




ところで、この「オホーツク・リラ街道」は、JRの跡地に整備されたものという。


一昔前はこの地・湧別町には国鉄・名寄本線の支線である名寄線や湧網線が走っていたが、こちらも国鉄再建法の施行により1989年(平成元年)に廃止されたようである。

国鉄「名寄本線」は、名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、網走支庁管内の興部町、紋別市を経て上湧別町の中湧別駅に達し、更にサロマ湖、オホーツク海、能取湖等の沿岸を巡って網走市の網走駅に至る「湧網線」が走っていた。 

又、遠軽町の遠軽駅より中湧別駅までの「名寄線」も接続していて、云わば湧別町は鉄道の拠点だったのである。当時の表現を借りれば「天塩国・奈与呂ヨリ北見国・網走ニ至ル鉄道」であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたもので、1920年頃(大正9年)に全線開通している。 
しかし、現在の「石北本線」が全通すると、名寄線は遠軽を境に幹線鉄道としての役目を石北本線に譲ることとなり、その後、財政事情により名寄本線、湧網線など全線が廃線に追い込まれたようである。

一時は第三セクター化して部分存続させる案も浮上したらしいが、全線存続を強く主張したため、結局1989年に全線廃止されたという。 
時代の趨勢とはいえ、廃止された特定地方交通線ながら唯一「本線」を名乗っていたし、その鉄道の拠点が一気に無に付してしまう・・、過酷と言えば過酷であったろう。





湧別町の近代歴史の始まりは江戸末期(1808年)、滋賀県人が現地の人を使役し、漁業に着手ことにより始まると言われる。 
その後、明治27年には高知団体や広島団体が入植するが、中でも、1897年(明治30年) 屯田兵第1次200名が移住し、更に、1898年(明治31年) 屯田兵第2次199名移住してきたことから町としての発展がなされたという。 


先にも記したが、「屯田兵」とは明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊のことであり、明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年(1904年)に廃止されている。 

日本では、300年続いた徳川幕府が滅び、明治維新が起こり、各地で内乱が起きたが、こちら北海道ではロシアとの間に領土の争いがあり、「北海道を守るべし」として北海道の開拓を兼ねた「屯田兵制度」が生まれたのであった。


屯田兵の条件は先ず士族であること、17才から35才までの男子であること、15才から60才までの農業に従事できる家族が二人以上いることなどであった。

屯田兵には、3年間、扶助米、塩菜料、必要な農機具などが支給されたが、屯田兵の生活規則は厳しかったという。 

屯田兵は家族を連れて入地するのが基本とし、入地前に建てられ用意された「兵屋」なる家と、未開拓の土地とを割り当てられた。 
兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られ、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。 

生活規則として起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要し、通常の軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援などにも携わったいう。 

また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ね、湧別町では、この時リンゴの植え付けに成功していて、リンゴの北限の地であるともいわれる。 
町内には現在も、北兵村、南兵村、屯田市街といった屯田兵に因んだ名称が残り、平成17には「屯田兵村と兵屋」と題して、道民が選んだ「北海道遺産」にも認定されている。



屯田兵の詩

屯田魂、心の中にひそかに眠る
飛翔の街、上湧別を遠くに思うとき
心揺れ動いたことがある
未開の地に鍬を入れ
湧別原野に汗が沁みる
みんなで拓った(やった)



次回は、 あのカーリングの「常呂」です






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日本周遊紀行(55)紋別 「遺跡と遺骸」

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日本周遊紀行(55)紋別 「遺跡と遺骸」




「遺跡」と「遺骸」という、意外な取り合わせ・・、



紋別の市街に入る少し手前に「渚滑川」(しょこつがわ)という清流が流れる。 

その渚滑川を挟んで砂丘地帯に約1キロにわたって続く海岸性原生植物の群落が広がる。 
ハマナスの群落地として知られ、小さなハス沼を中心にエゾスカシユリ、エゾカンゾウなど50種類ほどの草花が咲く。 

そのハス沼の際にオムサロ・ネイチャーハウスがあり原生花園の案内と二階はオホーツク海やオムサロ原生花園の展望室になっている。 



この地、冬は流氷見物のメッカと言われ、巨大な圧力で押されて出来た流氷山脈を見るのに絶好地という。 
又、国道を挟んで「オムサロ遺跡公園」がある。
そう・・「紋別」は遺跡の街でもある。 

市内様々な箇所に50数箇所以上あるといい、その中で代表的なのが「オムサロ遺跡」といわれる。



ここの遺跡では、縄文時代からオホーツク文化期、擦文文化期までの様々な遺物が発見され、竪穴式住居跡が見られるという。 

オムサロ遺跡は、縄文時代から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文時代等の歴史的連鎖性ともいうべき住居跡が200軒以上埋もれきらない状態で残されており、他にも竪穴住居や高床倉庫が復元されている。 
一部公園化された園路沿いには、それらの住居跡を見ることができるという。 




北海道では有史以前より其々異なった特有の文化が成立したと言われるが、それらの様子を大雑把に観てみると。 

数万年前の氷河期の頃にはシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、この頃を「旧石器時代」としている。 
その後、本州からの影響もあって土器を中心とした縄文文化が興った。 
縄文時代」は前期、中期、後期、晩期等に分けられるとされ、一万年以上も続いた文化といわれる。


縄文晩期の頃、本州以南は多数の渡来人(主に大陸からの帰化人)が移住することで弥生時代(稲作と鉄が主流となる文化)を迎えるが、北海道にまではその弥生文化が伝播せず縄文文化が引き続きつづいた、 
この時期を考古学上北海道では「続縄文時代」と呼んでいるようである。 

つづいて、縄文とは異なる文様の土器に刻む「擦文時代」となって、これが7世紀頃に始まって12~13世紀ころに終わりを遂げる。 時期は本州の奈良時代と平安時代に当るとされる。 
擦文文化は土器を作る際、ヘラや刷毛で擦って作ったので、その名が付いたともいわれる北海道特有の文化である。

擦文文化から引き継がれたのがアイヌ文化といわれる。 
更に、この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって12世紀ごろには鉄器を用い、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟したとされる。
アイヌ文化は比較的新しく、その擦文人がアイヌ民族の祖ともいわれる。


道内において擦文・アイヌによって擦文時代が営まれていた頃、前記したが、オホーツク海沿岸には海獣狩猟を中心とする北方大陸の文化を持った人々が道内に移住してくる。 
オホーツク文化」と云われる時代であり、シベリヤ・カラフトの北方民族の文化で5世紀から13世紀頃まで続くが・・、同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質な文化であったともいう。 

その後、和人の影響もあって「アイヌ文化」が成熟した頃、オホーツク文化は忽然と姿を消したといわれる。 
これはアイヌ民族と完全に同化したか、或はアイヌに追われたともの考えられるという。


尚、全道に成立していた「アイヌ文化」も、江戸初期頃の松前藩が北方の宗谷場所等を開設したのをきっかけに次第に衰退していくことになる。
それまでアイヌの自由な漁獲の場であり、恵み豊かな権益であったオホーツク海沿岸やサロマの湖などの各所の魚場は和人等に収奪され、アイヌ人は漁業労働者として駆使されるようになる。 
又、和人の影響により生活様式も変化し、特に請負人によるアイヌ人の使役法が過酷を極めたために、男女数の不均衡・結婚機会の減少など人口増加を阻む諸要素が多くなり、アイヌ人を次第に衰亡に追い込む結果となったともいわれる。





紋別でも「」(ゴールド)が採掘されていた・・?、


紋別より遠軽に到る、ほぼ中間地に「鴻之舞」という地区がある。

浜頓別におけるウソタン川流域の金採取でも述べたが、ここ紋別市から遠軽町方面に抜ける山間部のルートのその場所では昔、金鉱山が在ってかなりの採掘量を誇ったという。 
戦前は東洋一の鉱山と言われた程で、鴻之舞鉱山といって紋別市鴻之舞にあり街としても大いに栄え賑わいをみせたという。 
大正4年に発見されて以来、数人の共同所有であった鉱業権を「住友」が買取し整備開発したもので、数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて東洋一の金山として栄えたという。 

昭和46年末まで行われ、その総生産量は金 64トン、銀 950トン に達しており、一つの鉱山としては日本最大のものであったともいう。
しかし、昭和48年(1973)北の黄金郷として佐渡の金山と並び全国にその名を馳せた鴻之舞金山は資源枯渇のために閉山し、56年間の操業に実質的な歴史に幕を閉じている。 



それから歳月が流れ、現在は住んでいる人影もなく実質的な無人の地として大きく様変わりし、そのままの姿で自然に帰りつつあるという。 
町の元住人に言わせると「幾年故郷来て見れば咲く花鳴く鳥そよぐ風 ・・」という歌の「故郷の廃家」の歌詞が身にしみると言う。

鴻之舞」の夢のような現実・・!!、それは浜頓別、枝幸に始まった ともいわ、オホーツク海沿岸におけるゴールドラッシュの端緒は、ウソタン川を始めとする砂金掘りの人達がつけたといわれる。




明治31年(1898)、堀川泰宗(ほりかわ たいそう・岩手県盛岡出身、北見で砂金山、旅館などを経営し、旧湧別村の村会議員も務めた、柔術の師範で大東流合気柔術を修業した。)の一行が、枝幸、頓別川上流のパンケナイで発見した砂金は、優秀な金田としてオホーツク・ゴールドラッシュの口火を切ることとなり、ウソタン川、ペーチャン川砂金発見の端緒ともなった。

最盛期の明治32年頃には、これらの砂金場には5千人以上の砂金掘りが押しかけ、盛んな頃では砂金掘りの作業をする時に体がぶつかりあった状態であったという。 
砂金掘り達の収入は、明治32年(1899)に「一人が一日200グラム程度を連日にわたって採取した」と言う記録もあり、当時地元での砂金の値段は1匁(モンメ:3.75g)あたり4円であったから、200グラムで210円ほどの金額になる。 

この頃の一人前の大工の賃金が1日80銭、出稼ぎが1日60銭であったというから、それは大変な金額であったということが判る。



噂がうわさを呼び、町全体がゴールド・クレージーとなり、漁夫は海を、農民は田畑を捨てて皆ペーチャンやパンケナイを目指した。 

狭い沢の砂金場には、料理屋や飲食店、雑貨店、床屋、風呂屋などがひしめき、熊の出るような山間部に突然集落が形成されたほどで、海岸部にある市街地の人口よりも砂金場の人口のほうが多かったというから、その賑わいは想像に難くない。 
そうした砂金狂騒も僅か2、3年の短期間であったという。




戦前の日本は、軍国主義で国家の政策は軍事最優先として推し進められていた。 

当然のことながら兵員を確保し、増強されたため成人男子はどんどん徴兵され国内の生産活動に従事する人員が欠乏した。
そこで、目をつけられたのが中国や朝鮮の人々であり、日本政府は大陸から中国人や朝鮮人を強制連行し、日本国内各地の鉱山や炭鉱、土木作業に従事させた。そして、ここ鴻之舞鉱山も例外ではなかった。


以来、鴻之舞も同様に徐々に金の採掘量が低下し、それに比例するかのように人口も減少し、過疎化も急激に進行し、当時の最盛期には1万人以上いた町の人口も昭和40年代頃にはゴーストタウンと化し現在に至っているとのこと。


今では、鴻之舞鉱山跡は紋別の「遺骸」となってその姿を晒しているという。


次回は、「湧別」


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