2010年1月15日金曜日

日本周遊紀行(52)稚内 「氷雪の門」

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同様に稚内公園(望郷の丘)に立つ「氷雪の門」



日本周遊紀行(52)稚内 「氷雪の門」


さて次に「氷雪の門」とは、戦後、樺太における邦人の苦難の過去、歴史を示した慰霊の碑である。


ソ連軍の侵攻を知った樺太の日本人は、北海道へ緊急避難することを決め輸送を始めた。
この時は、あの北支満州へ侵攻したのと同様に、樺太でも大混乱を極め、港へ着くまでは様々な苦労が有ったと言われる。 

先ず、ソ連の潜水艦が出没、留萌沖では「小笠原丸」などが魚雷攻撃で沈没、1800人の犠牲者が出した。


樺太・大泊港はソ連軍によって封鎖されるまで77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという。 
樺太と千島の戦闘では、日本軍3000、民間人3700人が戦死している。このことは8月15日の日本の無条件降伏が決まった終戦後のことである・・!!。 更に、68000人の邦人はシベリヤに抑留され、強制労働を強いられた。


この門は、これら戦時、否、戦後における望郷の念と、樺太で亡くなった日本人を慰霊する為に建立されたもので氷雪の門の間には、氷雪に耐え、たくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像が立っている。




「引揚船」について・・、<br>

不可侵の約束を一方的に破ったソ連軍の侵攻が満洲・樺太・千島などではじまり、北方では樺太の老幼婦女子や逓信省職員の北海道への避難搬送が急務となった。 

そこで依頼を受けた「小笠原丸」は、8月17日に急遽稚内港を出発して樺太南端の大泊港へ急行し、そこで約1500名の引揚者を乗せて稚内に運んだ。 

しかしまだ大泊には数万の避難者がおり、休むまもなく「小笠原丸」は2度目の搬送のため大泊に向かった。8月20日出発して同午後に大泊に到着、やはり約1500人を大至急乗せて午後出航し稚内に帰港した。 ここで1500人中900人を降ろし、残りの600人を乗せて、北海道西側海岸沿いに稚内から小樽へと急いだ。 しかし、航程あと3分の1で小樽・・というところで、惨劇が起こったのである。


このときの「小笠原丸」は、もう戦争は終わったからと安心して灯火管制もせずにいたのだが、8月22日午前、突如として潜水艦による魚雷攻撃をうけ、たちまち沈没してしまったのである。
海岸(増毛町)から約4海里(1海里は1852m)の場所だった。 

浮かび上がった潜水艦は、海面を漂って助けを求める婦女子たちに機銃掃射を浴びせて虐殺また虐殺、十分に殺し終わったところで悠々と姿を消したという。


老幼婦女子600人の他に乗組員と警備隊が100人ほどいたが、その一部が救命艇に乗って陸地に急ぎ、漁港に急を知らせた。 

知らせをうけた漁港では至急漁船で救助に向かったが、乗船者の多くは船室に詰め込まれていたのと、危うく海面に逃れた人たちも機銃掃射で虐殺されたのとで、一般乗客で海岸にたどり着き運良くボートに乗れたのは、わずか19名だったと言われている。 

また甲板にいて、かつ泳ぎの達者な乗組員と警備員も、助かったのは4割のみであったという。


同じその日、その付近で、やはり緊急手配された引揚船の「第二新興丸」(2500トン)と「泰東丸」(880トン)も同様に魚雷攻撃を受けた。 

小型の「泰東丸」は撃沈されて生存者はなく・・、大型の「第二新興丸」は大破されて多くの犠牲者を出しながらも、かろうじて近くの留萌港にたどり着いたという。


「泰東丸」の犠牲者数は約400名、「第二新興丸」のそれは667名だったと言われている。


じつは「第二新興丸」には、用心のために小さな大砲が積まれていた。 

潜水艦は民間船というので油断して浮き上がったため、この大砲による日本側の必死の反撃によって、敵潜は沈没したという。 

だが沈没した潜水艦が、他の2隻に魚雷を発射したものと同じだったのかどうかは分からないという。


いずれにせよ、結局、合計して1700名余(あとの調査で1708名とされたらしい)の老幼婦女子が戦争終結後に犠牲になったわけで、空前の残虐行為であったことは確かである。 

緊急避難時だから乗客名簿などあるはずもなく、したがって遺族にとっては、海で犠牲になったのか陸で殺されたのか、それとも樺太のどこかで生きているのか、それすらも長いことわからないと言われる。



南無阿弥陀仏・・!!。<br>

この後は同じコース(函館から)で「温泉と観光」を訪ねます。





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2010年1月14日木曜日

日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」

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稚内公園(望郷の丘)に立つ「九人の乙女の碑」



日本周遊紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」


野寒布岬を後にして、海岸に沿いを「稚内」の市街地へ向かう。

海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。 
又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。
F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。

だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。



この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 
乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。



その「九人の乙女」のことであるが・・、

日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。

この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。


この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・、」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。 戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む。』


しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。

『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 

戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる。



昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌

  『なすべきを なしをへてつひに 命たちし  
            少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』



香淳皇后の詠み歌

  『樺太に つゆと消えたる 少女らの  
           みたまやすかれと ただにいのりぬ 』



昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

次に同じく稚内・「氷雪の門」、


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日本周遊紀行(52)稚内 「野寒布岬」

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野寒布岬(現在時間を表している)



日本周遊紀行(52)稚内 「野寒布岬」


「もう、これ以上北へ行く、先の道はありません」・・、


ノサップ(野寒布岬)の最先端部である、敢てゆうなら最北第二の岬・・?へ遂に来たのである。

北端の地は、タイル貼りされた小奇麗な園地の中央にイルカのモニュメントがあって、何故か、その上に大時計がぶる下がっていた、時に10時30分を指していた。

実は、日本最北の地は稚内の東にある宗谷岬であるが、ノサップ岬(野寒布岬)は稚内市街にも近いせいか周囲にも人家も結構多い(航空自衛隊の基地も近くにある)。 
日本海の夕陽が綺麗ということもあるが、名前の通った宗谷岬に比してやや地味なのは否めない、果たして・・?。

宗谷岬は、これから向かいます。


ノサップ岬の名・野寒布岬は、根室のノサップ岬・納沙布岬と紛らわしい。 
あちらは日本最東端で日の出の岬、こちらは日本最北端(二番目)で夕陽の岬であろう。

「ノサップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味であるらしい。 
確かに地図を見ても、宗谷が上顎、野寒布が下顎で宗谷湾の口を開けている様子が判る。 
一方、根室の方はやはり下顎に納沙布、上顎に知床で根室海峡が口を開き、しかも国後島を今にも噛み付こうとしている、「国後は俺のもんだ・・!!」と云わんばかりに。 
ノサップのアイヌ的解釈は的を得ていると思われる。

岬の隣に「ノシャップ寒流水族館」があった。
月曜の午前ということもあって小生以外の入場者は見当たらないろうであるが、入場口近くで若い女性がアザラシに特訓をしていた。 
多少の挨拶的会話をしながら、気がついたのが水槽の中央にかなり大きめの一頭のアザラシが半身を出して直立不動の姿でじっとしている。

「このアザラシはどうしちまったのですか・・?」
「日向ボッコしてるのでしょう、もう歳ですから!」
「・・? 水中で日向ボッコ」・・?、
「歳とると、動物も人間も一緒だね、日向ボッコは・・、」


館内に大回遊槽が有った。
そこにはホッケ、カレイに混じって幻の魚と言われる巨大な「イトウ」がいた、 あれっイトウが海水に・・?



「イトウ」という魚・・?、

ところで、長い間イトウは完全な淡水の魚であると思われてきたが、現在では中には降海する固体がいることが確認されていると。 
降海すると言っても、沿岸部での生活がほとんどで、遠洋にでることはないという。
かつて、イトウは北海道だけでなく、岩手県以北に広く分布していたことが知られているが、青森県小川原湖付近にて1940年4月に捕獲されたものが最後の記録となって、その後は姿を消しているという。

一般的に、サケ・マスの類の魚たちの産卵期は秋であるが、イトウは春に産卵をするという、このことは寒冷な気候に影響を受けたことが要因であるとも言われている。 
性質は非常に獰猛で、反面強い警戒心を持っている。 
強さと臆病さが混在した性質が特徴的だと言えるだろう。 

成熟するまでにオスで6年、メスで8年かかる。体長も30センチメートルになるまでに5年、1メートルクラスになるには15年以上かかると言われている。 
イトウが幻の魚と言われている所以には、こうした時間のかかる成長過程が背景にあるものだと思われる。

どちらかと言えば鈍重なボッーとした顔をしている印象を受けてしまうが、これはイトウがそうした生きるためのスピードを必要としなかった。
必要とする場所に生息してこなかったという歴史がそうさせているのだという。 丸太のように太く長い体は、イトウの鈍重な印象を強くしていると。

アメマスの仲間にも言えることであるが、こうした湿原の川に棲息している魚類としては、太く丸い体形が向いているものと言われる。 
ヤマメやニジマスなどのように、速い流れの中をスピードつけて泳ぐ必要がないのだから、そうした環境に適応した結果、現在のイトウの体形であるのだろうと想像されると。
 
非常に貧食で主に魚を食すが、大きく成長したものはカエル、ヘビ、ネズミなどの小動物さえも丸呑みにしてしまうと言われ、その食性にからむ伝説は数知れないという。

次回も「稚内」


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2010年1月13日水曜日

日本周遊紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」

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天塩川河口・鏡沼海浜公園に「松浦武四郎」像と歌碑が立つ




日本周遊紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」



歌碑より・・・、

『蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
            今宵ぞ夏の とまりをばしる』

『ながむれば 渚ましろに 成にけり
            てしほの浜の 雪の夕暮れ』




国道232号沿いの「道の駅・てしお」に着いた。

赤レンガの建物が印象的な静かな道の駅で、ほぼ町の中心街に位置しているようだが、手塩の町そのものが全く静かなのである。

北海道開拓の歴史は、アイヌ語で「ベツ」と言われる「河・川」から始まったといわれるが、尤も、文明の発祥、人の生活基盤そのものが、川から始まったのであるが。 

原始林に覆われていた北海道で、唯一の交通手段は川船だったのである。


天塩町は、北海道第二位の川といわれる天塩川の河口にあり、川の恩恵を存分に受けている。無論、海、川の船運を基盤として発展したものであろうが。

天塩の地名は古くから使われていて、「天塩の国」と云われ、古い文献にも良く登場している。 

明治期まで十勝、釧路、石狩などと同じように増毛から稚内あたりまでの広域を「天塩の国」と呼んでいたようで、遠くシベリア・沿海州にまでつらなる太古からの歴史を持っていたともいう。

北海道は勿論、東北北部からは大陸は目の前にあり、縄文期のころより相当なる繋がりを持ってはいたのは確かなようであり、天塩川河口の川口地区には当時の大きな集落跡があり、先住民族の遺跡が残されている。
復元された竪穴住居は千数百年前の擦文文化期(さつもんぶんか)の頃といわれ、当時の住居を模してつくられたものでである。
 

擦文文化期とは北海道特有の文化で(一部、青森県北部も擦文文化圏に含まれるようであるが)、縄文後期には本州より弥生文化が伝わり、この時期に弥生と縄文が融和混合した頃の文化をいうようであり、本州の古墳時代から飛鳥時代に相当する年代でもあると。 

縄目の模様の縄文土器に対して「擦文式土器」とは、刷毛で擦ったようなの文様の土器が登場したことによるもので、その時代は北海道と本州の関係は更に強まり、本州北部の文化とほぼ同じになったとされている。 
擦文人の集落は河川のまわりに立地していて、その集団は縄文人を祖先にもち,後世のアイヌ民族を構成した集団でもあるという。


因みに、北海道の文化の変遷をみると、縄文時代(前期、中期、後期などに分かれ、1万から2千年前)、続縄文時代(2千年前、石器・鉄器:青銅器の併用時代)、擦文時代(5、6世紀~ )、アイヌ時代(12、13世紀~ )に概ね分けられるという。



天塩町は、明治期の北海道開拓史以前から日本海、天塩川での船の往来が多かったところである。

特に、江戸期には「テシホ場所」が置かれ、交易や漁業が繰り広げられ、当時の天塩川河口には7~8百石積の船(大型和船)が行き交い栄えていたといわれる。 
その後暫時、開墾を繰り返し、次第に町としての機能を形成し、大正期には木材積載船で賑わう港町として栄えるなど、町は一気に人口を増やし市街地がにぎわいをみせることになる。

手塩の街のイメージは、やはり大河・「天塩川」に重なるのである。

天塩川(てしおがわ)は、北見山地、上川町の北に位置する天塩岳付近に源を発し名寄盆地を北上、音威子府(おといねっぷ)から天塩平野に出て幌延町と天塩町の境を西へ流れる。

しかし、海岸目前で浜堤、砂丘に行く手を阻まれ、従って、海岸線沿いを10kmほど南流した後日本海に注ぐことになる。 
長さ256kmは日本で4番目に長いが、大きな支流が少ないため、流域としては10番目にとどまるという。 
天塩川の流域を地図で追って行くと音威子府(おといねっぷ)から先の下流域の平地に至ると、いたる所に三日月湖が残されているのが判る。

特に顕著なのが幌延町の南部にある湖・沼などが歴然としている。 
「三日月湖」(みかづきこ)とは、蛇行する河川が長期の侵食などの影響により河道を変えてしまった際、旧河道が取り残されて池や湖となったものである、河跡湖(かせきこ)とも呼ばれる。  
多くの場合、この湖が三日月形となっているため三日月湖と呼ばれる。



「北海道」という名は探検家・「松浦武四郎」が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話から誕生したという。

天塩川流域に関する詳細な調査は、江戸幕府の命を受けた松浦武四郎が最初で、幕末の安政4年(1857年)6月のことであった。 

その調査記録を要約・刊行したものが「天塩日誌」であり、日誌には、それまで知られることのなかった蝦夷地最北端の内陸部の様子を詳しく観察し、川の流れや深さ、川岸の様子、自然や生き物をアイヌ語地名とともに記されていると。 

そこには、アイヌの人々の生活の様子とともに前人未踏の天塩川の自然が描かれてると。 又、武四郎はその中で、音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの家に宿泊し、「アエトモ」という長老から話を聞き「ホッカイドウ」という名の発想をしたという。 

武四郎は、アイヌの言葉を十分理解していたが、「カイナー」(男の意、カイチーが女の意)という言葉を不思議に思っていた。アエトモは「カイ」とは「この国に生まれた者」という意味で、ナは敬語であると武四郎に話した。 

武四郎はこれを元に、この国は「北のカイの道」である、つまり「北加伊道」と命名し、その後「加伊」を「海」にあて「北海道」という名が誕生したという。

音威子府村では「北海道命名の地」を宣言しており、天塩川の川辺には碑が建立されている。 又、手塩町の天塩川河口には「松浦武四郎」の像が立つ。



天塩・テシオとは、アイヌ語のテッシから由来されており、「梁」(やな:川の瀬などで魚をとるための仕掛け。 
木を打ち並べて水を堰1ヵ所に流すようにし、そこに流れて来る魚を梁簀(やなす)に落し入れて取るもの)を意味している。
これは、天塩川に自然に出来た、梁のような場所が数多くあり、天塩川をテッシ・オ・ペツ、魚を捕獲する梁のようなところがたくさんある川という意味からから転訛したといわれる。


次回は、最北・「稚内」



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2010年1月12日火曜日

日本周遊紀行(50)遠別 「稲作北限」

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遠別の町並みと利尻富士



日本周遊紀行(50)遠別 「稲作北限」


初山別の風光の良い日本海道から、遠別町の「道の駅・富士見」へ来た。 


富士見という名称が少々気になったが・・、

小生が住んでいるのは関東圏は西部の神奈川県であるが、周辺地域には所々にその富士見という地名や所名は在る。 
勿論、日本一の富士の山が見えている。 又は、かって見えていたという意味合いからである。


道の駅の裏側高台には、憩いの場所「富士見ヶ丘公園」の広大な緑地があった。 
そこの展望台からの眺めはすこぶる良い、遠別川とその向こうに遠別の町並みが望まれ、正面は紺碧の日本海であった・・、とその右手洋上に浮かぶのは利尻島と利尻山、つまり秀峰・利尻富士だったのである。 

ハハーンこれで納得した、「富士見」は利尻富士のことだったのである。



ここから眺める遠別地域は、遠別川を中心とした美しい景観が連なる穏やかな雰囲気が伝わり、周辺は丘陵地帯が大部を占めるが、遠別川に沿って田園も広がっている。 
生活基盤は、日本海の恵みを受けた漁業が中心の地であろうが、水田が広がる農業もそれなりの生業であるようだ。



この地が水稲の北限と言われる・・?、

稲作の北限・・??、 遠別の地域そのものが既に日本列島の最北の地なのである。
云うならば「水稲稲作の最北地」と表現した方がよさそうである。


この辺りの沿岸地域は、酷寒の北海道の北域にも関わらず対馬海流(暖流)の影響により比較的温暖といわれる。
合わせて南部にピッシリ岳(1,031m)を主峰とする天塩山地が連なり、この山地に源を発する遠別川は延々80km余にわたるが、この川の水温が、この地にしては比較的高めであることが幸いしているという。

これらが、遠別川流域での日本における“水稲北限の地”でもあるとの理由とか。 
しかも、世界的に見ると遠別町より北部の地域での稲作は行はれているが、その殆どが陸稲であるとのことであり、水稲としては世界最北の地でもあるらしい。




ところで、稲作の発祥源は・・?、


明治30年頃、遠別町に初めて入植したのが越前福井の武生(たけふ)の団体であった。 
その後、愛知、千葉、熊本県等の団体が入植し、個人移住も続々入植したという。


北海道入植者は何処も同様に、特有の原野、密林の開墾から始まる。 
それらの伐採、土地の開墾、そして耕作は困難を極めるが、当地への入植は時代も進んでいて機械化も進み、遠別の地性(地勢)もその割りに良かったのだろう、入植は淡々と進んだようである。 


開基以後、遠別の農業は馬鈴薯、麦や豆といった畑作が中心であったが、越前団体らは入植後すぐに水稲栽培を試み、試行錯誤のうえ国土の最北地に稲作を実らせたのであった。

尚、越前・武生は、福井県・越前平野の最南端にあり、古き越前の国の国府(奈良期の政庁)が置かれていて、かつては「府中」とも呼ばれた。( 旧武生市役所や公会堂は旧国府跡地)


この越前平野は、県内の水田面積の凡そ半分を占める大稲作地帯が広がり、国内でも有数の米どころである。 

この地は又、大陸から「越の国」(当時は北陸地方一帯を指す)へ弥生の文化、文明が直接伝わった所でもある。 
その中心が「武生」であり、越前平野へ稲作文化を広めていったともいわれ、いわば、わが国の稲作の発祥の地の一つと言えるのである。 


これら、稲作の遺伝子を持つ人々が、最北の地・遠別を目指したのであった。


武生の人々に倣って各地域で水田熱が起こり、大正10年頃には急速に水稲栽培が本格化したという。

因みに、現在も当地区出身者の人々が、四世を中心に多数生活していることか。



この地名の由来は、内地からの遠い別れの地「遠い別れの地」、「遠別町」などと想像してしまうのだが・・?、実際はアイヌ語の「ウイベチ」(相語る川)からだという。
他に、「ウイエベツ:さわがしい川」、「ウエンベツ:悪い川」という意味でもあるというが・・?、
稲作の実る肥沃な地を造りだす川にして「悪い川」と言うのはチト頂けないが・・?。


次回は、「手塩」



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2010年1月11日月曜日

日本周遊紀行(49)羽幌 「天売島と海鳥」

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ウミガラス(オロロン鳥) 資料

スタイルがペンギンによく似ている麗しき海鳥。
ウミガラスの鳴き声は「ウォルルン オロロロ・・・」と鳴き、その鳴き声が「オロロン」と聞こえたところから、「オロロン鳥」と呼ばれている。
絶滅危惧 1A 類(ごく近い将来に絶滅の危険性が極めて高い種)に指定されている。
現在、日本では天売島だけで繁殖しているが、2004年、2005年と2年連続で繁殖数が0羽となった。
この優雅な「海鳥」は最早、日本国内では見られないかもしれない・・!!。




日本周遊紀行(49)羽幌 「天売島と海鳥」


小平の「ニシン番屋」の道の駅に沿って海岸を一直線に延びる海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言う。

小樽より国道231、国道232・サロベツ原野を経て稚内を結ぶ、日本海広域観光ルートであるが名称の由来は、あの「オロロン鳥」に由来する。




羽幌町に到った。 


後に、この町の海岸沿いにあるホテル・「サンセットプラザはぼろ」に泊まった折、洋上に焼尻島や天売島が望まれた。 

日本で唯一の繁殖地といわれるオロロン鳥(海ガラス)がいるのは、この「天売島」(てうりとう)である。 

その天売島へは、この先、羽幌の港より凡そ一時間の距離であるが。




天売島は人間と海鳥の「共生の島」といわれる・・!!。 


周囲約12kmの小島で、羽幌から約27km沖合の日本海に浮かぶ。

北海道本島に面した東海岸に400人近くが住み、高さ100m以上の断崖が続く西海岸には、八種類百万羽近くの海鳥が3月から8月にかけて、繁殖のために訪れるという。


天売島に初めて倭人が住みついたのは江戸時代で、ニシンなどの豊富な資源に目をつけてだといわれるが、それまで天売島は、ほとんど人間が住み着かない「海鳥の楽園」だったに違いないと。


以来、200年にわたって人間が定住し、海鳥との共生が続いているという。 



この規模の島で、これだけ多くの海鳥が繁殖し、しかも、人間が生活を営んでいる地域である例は世界的にあまりなく、その意味で貴重な「共生の島」であるといわれる。 


島は、周囲約12km.で砂浜はまったくなく、石と岩場の海岸で最高点184m.の西海岸付近が海鳥などの繁殖地である。 
鳥類は、島の北西海岸で断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥が棲息する。


島民の生活基盤は漁業、観光で年間約3万人近くが訪れるということで、羽幌町からフェリーと高速船が出ている、ただし、高速船は6~8月のみとのこと。
 



ところで、近年になって人間と海鳥の「共生の島」も人間による様々な影響で海鳥に「変化」が現れているという。


先ず、1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた「サケ・マス流し網」漁業による混獲で、夥しい数の潜水の名選手であるオロロン鳥が犠牲になったという。 

もう一つは天敵のカモメや、島民・観光客が出すゴミに集まる海ガラスならぬカラスが増え、繁殖群が縮小され集団防衛できなくなったオロロン鳥は、卵や雛を捕食されやすくなったことなど。 

又、オロロン鳥のみならず、ケイマフリ、ヒメウ、ウミネコなども減少し、海鳥の繁殖地と漁場が同じなので、延縄漁の仕掛けや、他の漁具で犠牲になっていることもあるという。 

又、人為的なものもあって、プラスチック類の投棄、ゴミ類での汚染など、観光客によるマナーの悪さも挙げられるという。




一方、世界各地の海鳥生息地では、一般的に古来よりの変動減少は余り見られないという。 


日本では天敵の害よりも人為的によってオロロン鳥や他の海鳥の捕食食糧になる魚類を乱獲し減少させ、絶滅に追いやったともいわれる。


1938年(昭和13年)、天売島が海鳥繁殖地として、国の天然記念物に指定された頃は、オロロン鳥は40,000羽いたという。 

1956年(昭和31年)以降はニシンは凶漁で、それ以後ニシン漁業は消滅するが、同時にオロロン鳥は合わせるように激減し、1980年(昭和55年)頃には553羽、そして遂に平成16年には観察史上初のオロロン鳥繁殖数は0羽になったという。 


更にオロロン鳥に合わせるようにウミネコの繁殖も0羽となったという。





人の勝手で飼い猫を捨て、そのネコが野良猫化して海鳥を襲っている。 

又、海鳥の繁殖地で漁業を営み、魚を減らして海鳥を餓死させ、また、漁網による混獲の犠牲になっているという。 
捨てたゴミに集まるカラスが、野鳥の卵やヒナを奪う。


それらは全て自然現象ではなく、人の生活の都合によって生じた人的行為の自然破壊であり、生態系の破壊を起こしているといわれる。


人と自然とが調和のとれた共生・共栄をしなければ、やがて「共生の島」どころか「天売島から海鳥が完全に消える日」が訪れるという。


過去、北海道ではニシン漁の乱獲によって「ニシン」の姿を消したともいわれる。



「天売島」に人類が住み始めるのは、実は縄文期の紀元前5000年頃ともいわれる。


海鳥繁殖地・天売島が国の天然記念物として指定された時期は、オロロン鳥が40,000羽もいて、それが1938年頃であった。 

その後平成の年代になって、オロロン鳥が数十羽飛来確認するも、2004年の頃になって、観察史上初の繁殖数が0羽となった。 

つまり、7000年の間、人とオロロン鳥は共生してきたが、僅か70年足らずで人類は、あの麗しきオロロン鳥を「見事に」滅ぼしたのである。



又、1986年頃にはウミネコは60,000羽いたが、2000年には半減し30,000羽に、更に、2005年にはオロロン鳥の繁殖が2年連続ゼロになったと同時に、ウミネコの繁殖も絶滅となったという。 

ウミネコは、僅か20年で絶滅した事になる・・!!。


海鳥や他の生物が豊かなときはニシンも豊漁だったが、しかし、魚もすめない場所では海鳥も海獣も人も生活できない。 

野生生物と共生・共栄できるように、いま人間活動・漁法の改善を真剣に考えなければならず、今日、野生生物に起きた悲劇は、明日は人々に降りかかってくることは確実であると。 

そのことを「天売島」は教えているのである。 
 


日本海沿岸を貫く海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言うが、今は何かその名が実に虚しい。

その為かどうか・・?、最近では、この海岸国道をオロロンラインとは言わず、「天売海道」と称しているようだ・・??。




次回は、「遠別)




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2010年1月10日日曜日

日本周遊紀行(48)小平 「鰊番屋」

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    小平鰊番屋(旧花田家鰊番屋)


    こちらは隣接する「道の駅・おびら鰊番屋」

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日本周遊紀行(48)小平 「鰊番屋」


昨夜は、留萌の神居岩温泉でゆっくりしたので、遅くなって海岸沿いの国道に面した小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」に着いた。 

駐車場の横に大きな木造風の四角い建物が在ったのは気がついていたが、例によって一杯飲んで車中の就寝となってしまった。 

そして今朝起きて気が付いたら、巨大なこの木造建物はニシン番屋で「旧花田家鰊番屋」とあったのに気が付いたのである。 

すぐ隣に同じような建物で「道の駅・おびら鰊番屋」があった。

巨大なこの木造建物が二棟建っていて些か紛らわしいが、手前北側の建物は番屋を模倣して造ったもので、本物のニシン番屋は南隣の「旧花田家鰊番屋」とあるのがそのようである。 

国の重要文化財だという建物で、内部は当時のままの室内の様子や鰊漁具等が展示してある資料館になっている。


僅かな入場料を払って中を覗いてみた。


すぐ右手に鰊漁でヤン衆が使用した各種鰊漁具が展示されている。
400㎡ほどの溜まり場は三つの”いろり”が仕切られた居間になっていて、狭い通路土間を介して雛壇状の三段のデッキと呼ばれた寝台から構成される劇場的な大空間である。
玄関土間の左方は主人の部屋や親方衆の部屋、客間、応接間などが当時のまま展示してあり、その豪勢さが偲ばれる。


小平町では、先人たちが築き上げた郷土の歴史・文化の保存と継承を目的に、昭和46年重要文化財の指定とともにこれを買収し、3年の年月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復元したものという。



昭和30年代まで日本海に押し寄せたという「鰊」。


銀鱗が海を染めると言われたほど、産卵期の鰊が大群で本道の西海岸に押し寄せ、特に、小平町鬼鹿の海岸は千石場所とも呼ばれた。 
中でもこの鰊番屋が建つ天登雁村(てんとかり:旧地名)の前浜一帯には、ヤン衆が歌う「沖揚音頭」が響き渡り、もっこ背負いの人たちで沸き返っていたという。

この番屋は、当時の網元の栄華の様子を今に伝える歴史的建造物である。

日本海沿いの主な鰊漁場には関係する家屋や旅籠が軒を並べたが、中でも鰊番屋は魚場主(網元)の親方や漁労、漁夫、農家の出身者、そして遠方からの出稼ぎ者等の宿泊施設として100~200人の大規模建物が目立った。

その中にあって、この「花田家鰊番屋」というのは総勢で500人という規模の豪壮雄大な大建築物であり、道内に現存する最大規模の鰊番屋であるとのこと。 

創立は一説には、明治29年頃といわれていたが、今時の解体調査の結果、建物部分の墨書やヤン衆寝所の羽目板の落書から親方生活部分の内部造作は明治38年頃と考えられ、ヤン衆生活部分はこれより2~3年早くできたものと推定されているという。 

故・花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃、山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われ、この番屋建物は、すべて地元の山地から切りだし、船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものだという。 

ニシン漁の最盛期には、この番屋の建物の他にも船倉、米蔵、網倉など100棟以上の付属施設が建ち並んでいたといい、 玄関を入ると左手に親方の住所兼執務所、右手に「ヤン衆」と呼ばれる雇い漁夫が溜まる場所を配置している。 
往時は200人を超えるヤン衆がこの大空間にひしめき合い、ニシンの群来を待ちかまえていたのだろう。
屋上階には見張り用の部屋もあるようだ。




因みに、概ねこの時期に小平地区は、留萌炭田を抱える産炭地でもあって、昭和の中頃にはその最盛期を迎えていた。

鉄路も留萌本線留萌駅から留萌炭鉱鉄道、羽幌線、達布森林鉄道などが延びていて昭和40年代までは活況を呈していたという。 

ニシンが去って、合わせるように炭鉱も下火になっていくのであるが、一時期はニシンと炭鉱で、この北海道の片田舎は、大いに沸きかえったのである。



国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、後に紹介する北海道の名付け親・「松浦武四郎翁」の像が建っている。

芳紀女性数人が、翁像の前で写真を撮ろうととしていたので小生が手を貸してやった。

ところでお嬢さんたち、この人どんな人だか知ってるの・・?」、
知らなーい」とあっさりしたもんである。 

掻い摘んで松浦武四郎の人物像を話してやったら、「すごーい」、「道理でかっこいいと思った・・、」と、こんな具合であった。 

彼女らは“わの字”の付いたバックナンバー車で、颯爽と北へ向かっていった。


次回は「羽幌」

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01. 15.

トラッキングコード3