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2010年12月9日木曜日

日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」

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 日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」 




四天王寺の境内の西側入口にあたる「石の鳥居」と奥は「極楽門(西門)」


写真:石の鳥居側(西側)から観る。五重塔と金堂(左)


「四天王寺」は日本仏教の最初の寺

この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「」、「」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。


その四天王寺へ向う・・、

環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。
でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。

そこには「大日本仏法最初四天王寺」と刻した石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。 
鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。


本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「」である。その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。 

四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つである。 
因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の木の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。 
気がつけば銅と木と石、即ち、金属と木製と石造りという取合せが面白い・・!。 
因みに、銅の鳥居の金峯山寺も寺院であった。

四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であり、どこか誇高いことを感じさせくれる。 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。 そこをくぐって四天王寺の巨大な寺舎堂宇が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。


四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院であるが、しかし、不思議な事に、それらしい荘厳な雰囲気や古刹寺院のもつ格式のある信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素による参拝の人々の賑わい等が全く無く感じられないのである。 
今はただ閑散としていて、これは大阪という大都会の真ん中に静かに鎮護しているためであろうか・・?、もっとも是は、訪れた時の小生の瞬時の私観ではあるが。
   
四天王寺は推古天皇の御世、西暦593年に造営が開始され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたものといわれる。
四天王とは、仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指しているという。

この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。 

四人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。 いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。

渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。 
この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。

四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。 


四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古いという。 
飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。

仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)と物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。蘇我氏と対立して敗れる)の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで仏教を世に知らしめ、布教するために四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという。 

隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいたという。 
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。

しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。 
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。


四天王寺の宗派について、

四天王寺は、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、近年、四天王寺独自の「和宗」とし、その総本山としているようである。 
因みに、小生にも若干縁のある「信州長野・善光寺」は誰でもお参りできる無宗派のお寺として知られる。 
それは、善光寺が仏教伝来直後の日本で初めての仏様を本尊とした、日本仏教の根源であると考えられてきたためで、つまり、日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建されたことに大きく関係するという。
但し、日本に仏教が始めて伝わってきた当時は、大陸や朝鮮半島では大乗仏教とされる「天台宗」が盛んで、日本でもその布教当時は影響は受けているとされている。 
従って、両寺院とも、今でも天台宗系の教義や管理運営、日常の作法、行事を主体に努めているようである。(善光寺は、浄土宗と両立)


境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺を手がけたのは6世紀(西暦578年)に聖徳太子が百済から招いた三人の工匠たちであったという。 
その一人の名を「金剛重光」といって、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。 

現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆という名称は現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めるという意味らしい。


ところで、四天王寺は過去に七回、焼失や倒壊の憂き目にあっているという。 
信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲などで破壊され、その都度再建してきてのは金剛組であった。
状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった。 この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。

室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。 金剛組は同じ轍を踏むまいとして、主な建物はやむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。 
四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺(かねじゃく;形が矩形、すなわち直角に曲ったものさし)を持つ像とともに、御堂を寄進している。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。 
老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。

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