2010年10月26日火曜日

日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」

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日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」



これは珍しい、天主に「金鯱」が無い。(理由は下記へ)


通常の「名古屋城」


「セントレア」の構内施設、出発口、到着口等を車で巡って、そのままセントレア連絡高速路、知多半島高速路で一気に名古屋市内へ向かった。 
市内へ入って都市環状線を名古屋駅付近より丸の内のランプで一般道へ降りる。
あとはナビに従って名古屋城へ向かった。

官庁街のビルの谷間を一刻走ると、名古屋城前から二の丸の信号があり左折すると、緑に囲まれた園地の一角に路駐スペースがあった。
城の係官らしき人がいたので、
「 お城の入口はどちらですか、30分位、車は大丈夫ですかね・・? 」、
「 ああ、いいよ、150mくらい行った所に正門があるよ 」
勇んでカメラ片手に出かける。 

しかし、入城は有料だった。無一文の小生、又しても駿河・東照宮の轍を踏んでしまったのである。
外部より天守閣を望める場所を聞いて御堀端の方へ進む、確かに西側のお堀端から城内の森に囲まれながら城郭・天守閣の上半分が鮮明に見渡せた。 
白漆喰の壁に、やや緑がかった瓦屋根が各階層に優美な姿を見せている。

気がつくと、やはりというか天守閣の屋根には本城の象徴的名物である、燦然と輝く「金の鯱(しゃちほこ)」は見ることは出来なかった。 
金鯱は、平成17年(2005年)3月24日に開会した日本国際博覧会・名古屋(愛称=愛・地球博)の開会式典で展示されるためと。

愛・地球博に併せて開催された名城公園内の[新世紀・名古屋城博]のために降されていたのであった。
金鯱を天守閣から取り外して公園外の外部施設での展示は、名古屋城が1959年に再建されて以来、初めてのことだったという。

黄金のもつ不変的価値は古今東西変わることはない。
400年前の江戸開府時における徳川家康は、豊富な「」を蓄えていた。秀吉も広く天下の金鉱を求め、採掘を奨励してた。いわゆる当時は日本のゴールドラッシュ期であった。
名古屋城の小天守閣は、尾張・徳川家の「金蔵」であったともいわれる。
これらの黄金を材料にして金鯱は鋳造されたといえる。 

ところで大阪城は、名古屋城に先立つこと20余年前に築城されたが、太閤秀吉の豪奢な派手好みにもかかわらず、金鯱を飾る事はなかった。 
江戸城にしても、家康は金鯱を飾る思い付きはなかったらしい・・?。

しかるに家康は名古屋城にのみ思い切った大金鯱を飾りつけた。 
この時期になって家康の天下統一が不動のものとなり、日本の中央に位置する尾張にて天下の名城を築城し、尚且つ頂部に大金鯱を飾りつけることによって、徳川家の大いなる威勢を示したものといえる。 
結果として家康晩年の最高傑作でもあり、日本築城芸術の頂点といえるものを造りだしたのである。

因みに金鯱にも雌雄があって、雄が北側で雌が南側であり若干、大きさや形が異なっているという。

『 天下様でも かなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし 』
(東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌)

『 宮の浜には 魚が寄らぬ 金のしゃちほこ 陽に光る 』
(宮の浜とは熱田のことで、北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌)

金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもあり、名古屋城は「尾張名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城である。
そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われた。


ところで、俗人の思惑で、金鯱に使われている金の価値は一体どの程度のものか・・?。
文献によると、江戸初期の「慶長大判」を1940枚使用したとされている。
大判は本来、恩賞用、献上用として使用された特殊な金貨で、小判のように通貨としては流通してはいない。
その慶長大判は、小判10枚分(10両)に相当するという。(等価ではない) 
10両は重さの単位で44匁・モンメで、グラムにすると165g(安土桃山時代頃には、ほぼ全国で1両は4匁4分 ≒金16.5グラムで統一された。実際、慶長小判では小判1枚に1両分の金が使用された、小判の額面も1両とされた。)を意味する。 

慶長大判の金位は68%であるから、1枚に金が112g165×0.68)使われている。
これが1940枚で、金鯱全体で217.3kgの金が使われた計算になる。 
現在の金の価値で1g=1500円とすれば、時価約3億2600万円の金が使われたことになる。
現在の金鯱は大阪造幣局で復元された物で、88.08kgの金が使われているとという、同様の計算で時価1億3200万円の金が使われていることになる。 
初代のものに比べると大分価値が劣るが、それでも凄い・・!!。


名古屋城は大阪城、熊本城と並ぶ日本三大名城の1つで、伊勢音頭にも・・、
『 伊勢は津(港)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ 』
と歌われた名城でもある。

戦国期、駿河の今川氏親が尾張進出のために築いたのが最初といわれ、現在の名古屋城二の丸一帯にあったとれる。 
織田信長が勢力を得ると清須城として改築している。 江戸時代、清洲城の地形の悪さ(水害に弱い等)から那古野の台地に、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として城を築くことを指令する。 

普請奉行(室町・江戸幕府の職名。基礎、石垣や上水などの土木関係を管掌)は加藤清正、作事奉行(鎌倉・室町・江戸幕府の職名。幕府関係の建物の造営・修繕などを統轄した)は小堀政一、縄張(縄を張って境界を定めること。建築の敷地に縄を張って建物の位置を定めること、実際には軍事的意味合いを含めて、地勢や地形を計り、城郭の基本形を決める主要な業務)は藤堂高虎によるとされる。 

慶長17年(1612年)には大天守が完成する。

築城成った新装の名古屋城へ清洲から移る時は、名古屋城下の地割・町割を徳川義直が直接実施したといわれ、この移住は「清洲越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺3社、城下の町並み、清洲城小天守も移るという徹底したものであったという。 

明治維新後、14代藩主の徳川慶勝が新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出る。 
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定し、天守閣は本丸御殿とともに保存された。 

この名古屋城は戦国期より昭和初期まで、戦乱による直接的、破壊的攻防は無かったが、昭和20年5月の太平洋戦火の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、金鯱などに焼夷弾が被弾して焼失してしまった。 
現在の天守閣は昭和34年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
又、この尾張地方は、戦国期の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地で、お互い群雄割拠し覇権を争った地柄であることは周知で、名古屋は、関東、関西の中央地であるが、この地から日本の代表的人物達が輩出したことは良く知られている。



名古屋:愛・地球博

名古屋市街の東方に長久手町がある。
長久手町は家康、秀吉の両雄が戦った「小牧・長久手の戦い」の舞台となった場所で、日本三大古戦場の一つとされる。

1584(天正12)年、尾張の小牧・長久手で戦われた豊臣秀吉と徳川家康の戦いは織田信長の死後、秀吉の勢力増大に対抗し、家康が信長の子、織田信雄(信長の次男)を味方にして起こした戦いである。
家康は小牧山に本陣を構え秀吉軍と対峙、三河への侵入をはかった羽柴秀次(豊臣秀吉の甥(姉日秀の子))軍を長久手にて破る。
又、秀吉方の部将池田信輝(勝入)・森長可らが長久手で討死にするなどしたが、大勢は動かず膠着状態となる。
翌年、信雄と秀吉が和睦、家康はお義丸(結城秀康・家康次男)を秀吉のもとに人質として送り講和を計った。

この戦いは、戦術的(実戦)には家康の勝利であったが、戦略的(政治、政略)には秀吉の勝利といわれる。

小牧・長久手古戦場」の東側が、本年行われている愛知万博会場である。 
2005年日本国際博覧会、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」と称している。人と自然が如何に共存していくか、というテーマを掲げたうえで、「環境万博」を目指しているという。 2005年3月25日から同年9月25日までの半年間、愛知瀬戸市(瀬戸会場)および同県愛知郡長久手町(長久手会場)2会場で開催されている。

入場者は当初は主催者側の各種規制があったりして、暫くは伸び悩んだようだが、これらの規制も緩和され、5月のG・Wあたりからは相当盛り返し、8月には博覧会協会の当初の目標総入場者数である1500万人を突破、想定より1ヶ月以上も早い達成となったらしい。
その後も客数は順調で9月のの閉会時点では200万人突破も夢ではないかも・・?と嬉しい予想もしているとか。

会場ではリニアモターカーが大人の人気とすれば、子供達には(大人も・・?)宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」に登場する、昭和30年代の家を忠実に再現した。 あの真っ黒クロスケが出てくる「サツキとメイの家」が超人気だとか。 
又、地元のトヨタグループ館、日立館、三菱未来館、三井東芝館とお馴染み企業グループ、地球市民村、アフリカ共同館、長久手日本館等人気があるらしい。

小生も折あらば訪ねてみたいと思っているが果たして・・?
名古屋は東京、大阪の中間に在り、地理的にも日本の中心に近い。 世界に誇るトヨタ(小生はニッサン系の地域にいる)を筆頭に製造的な業種は日本一らしい、もっとも製造業は世界に誇る日本であるから、その中心はやはり名古屋と言える。 
近頃のニュースで「トヨタ」が、自動車製造世界一、製造産業世界一になる日も近いのでは、といわれているが・・?。


名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介しよう。
キーワード 「名古屋はええよ!やっとかめ
http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/

いずれにしても「セントレア」といい、「愛知万博」といい、近年は尾張中京地区が日本の景気のリーダー的役割を果たしている事は疑いもない。

次回は、長島 「宝暦の治水工事」



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