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2010年8月4日水曜日

日本周遊紀行(129)東京 「江戸城と太田道灌」

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 日本周遊紀行(129)東京 「江戸城と太田道灌」 



首都・東京・大江戸、先ずは江戸城と太田道灌・・、

東京湾上、「アクアライン」から見る東京市中のビル群は蟻塚のような様相である。この周辺では働蟻の如く様々な人々が、右往左往しながら営んでいることだろう。

日本の首都である「東京」は全国47都道府県の中でもっとも多い約1200万人が暮らす世界有数の大都会である。 
ところで日本一広大な関東平野に位置する大東京、この東京に2000m級の山岳が存在していることは、あまり知られていない。 東京三多摩の最奥部の「雲取山」である。
又、海洋部は東京都島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)が含まれるため、日本の最南端である沖ノ鳥島と、最東端である南鳥島が東京都に属している。
実にまさか・・?本当かよ・・である。

因みに、「沖ノ鳥島」は東京から南南東に約1,700km離れたところにある。 
台湾よりも、ハワイのホノルルよりも南にあたる熱帯であるが、周囲何百キロも島のない絶海の孤島である。
報じられているように、「」という名前がついているが、実際は広い環礁の中に高さ1m弱の岩が二つあるだけ。 この岩が風化したり波の下にもぐってしまうと、日本の排他的経済水域40万平方km分を失ってしまうことになる。 日本の国土面積が約38万平方kmであるから、いかに大きなものかお分かりいただけると思う。
東京」は、内陸地こそ小さな面積ながらバラエティに富んだ地形であることが大きな特徴でもある。

昔の国名で言う武蔵国のほぼ全域、下総国の一部の範囲、伊豆国の一部の範囲を合わせたものが、現在の東京都の範囲に相当する。
面積は2,187平方キロ(陸地部)、人口は12,578,000人(2005年12月現在)である。 日本の都道府県の中では人口が最も多く、人口密度は大阪府と同程度である。



東京以前、つまり「江戸」は1603年に徳川家康がこの地に幕府を開いたことから繁栄が始まる。
当時は東京ではなく「江戸」と呼ばれ、既に18世紀ごろには人口100万人を超える大都市で、当時としても世界一の大都市であり、日本の政治、経済、文化の中心であった。

無論、現代においても様々な分野において日本の中心は「東京」である。
そして東京の中心はやはり「皇居」であろう。 かっての「江戸城」である。
東京の発展は江戸城なしでは語れない。 それらの総本家である江戸城は、云わずと知れた将軍家・「徳川家の居城」である。



太田道潅と山吹一枝・・、

江戸城の起源は平安時代末期、「江戸氏」を名乗った平重継の子孫の館が旧本丸、二の丸あたりにつくられたことにあると推測されている。
その館の跡に康正2年(1456年)、扇谷上杉氏の執事だった御存知「太田道潅」(資長・おおたすけなが:仏門に帰依して以降は道灌の号をもちいた)が築城完成させている。

室町中期の太田道灌は、鎌倉公方(関東地区を統治すべく中央から派遣された長官・足利氏)を補佐する関東管領・扇谷上杉氏に仕え、文武両道に秀でた武将であった。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったことは広く知られており、江戸っ子から「道灌さま」と親しまれていた。 

若い頃の道灌は、武勇の名声は高かったものの学問や風流を解せず、ただ野山をかけては狩猟を楽しんでいたという。
そんな道灌が歌道に励む動機となったのが、例の「山吹の花・・」のエピソードである。


「 ある日、道灌は鷹狩りの途中でにわか雨にあい、近くの農家で雨をしのぐため簑(みの)を借りようと立ち寄った。 すると少女が出て来て、ただ無言のまま歌句の一句を添えて、黄色く咲いた山吹の一枝を差し出した 」 
道灌には、その「歌句と山吹」の意味が解らず「花を求めたのではない」と不機嫌のまま帰館した。 
そして後に、事の始終を家臣に話したところ、それは


 『 七重八重、花は咲けども 山吹の、 
            実の〈簑〉一つだに なきぞ悲し
 』

という古歌で返答したのだと教えられる。

花が咲いても実のつかない山吹の花にたとえ、「家が貧しくて簑さえ持ち合わせない」と、ゆかしく断ったのだった。
この時、道灌は自分の無学を恥じ、以来大いに発奮して勉学に励み、ついには歌人としても名をなしたという。



道灌暗殺・・、

文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君・上杉定正の糟屋館(かすやのやかた:現、神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、主君の手によってこの地でで暗殺された。 享年55であった。 
道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを家臣に襲われ、斬り倒されたという。 死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いという、一種の予言であった。

京の都での騒乱・「応仁の乱」も収束し、次第に戦乱が地方に広がる、所謂、戦国時代・下剋上への突入の時代であった。 
太田道潅の暗殺後、扇谷上杉氏の家来が城代で「江戸城」を管理していたが、やがて小田原北条氏が関東を支配するようになり、北条氏の支城となる。 
道灌の予言は的中したのである。

北条氏綱は武蔵国の押さえとして江戸城を重視し、本丸に宿将の富永氏、二の丸に同じく遠山氏(遠山の金さんの先祖)、三の丸に道潅の孫の太田資高を配している。

現在、わずかに江戸城・内堀に、「道灌堀」としてその名をとどめている。

次回も「江戸城物語」



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