2010年4月5日月曜日

日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文化」

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日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文化」



苫小牧の市街地を抜けると国道は36号線となって再び海岸沿いを走りながら、間もなく室蘭本線と真近に並行して、白老町(しらおい)に至る。 

都市対抗野球で大昭和製紙が北海道(白老町)の代表として、出場していたので、その名称は承知しているが、一般に白老町は登別市、苫小牧市に挟まれ、存在感がやや薄いようであるが・・?。
登別は温泉の街、苫小牧は港湾都市、紙の街(新聞紙の生産は日本一)として全国的にもある程度の知名度があるが、白老はこれに比して地味なのは仕方がない。
白老町に日本人が始めて入植したのは幕末の頃、仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設し入植している、これが白老町の開祖と言われ、町内には仙台藩の陣屋史跡や資料館も在る。



「白老町」はアイヌの町である。



この地には和人(日本人)が入植する遥か以前から、アイヌコタン(アイヌ人集落)があり、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるらしい。 
室蘭本線に「白老」という駅がある。
駅の近くには「ポロト湖」が広がり、その湖畔にアイヌの人々が生活していた「ポロトコタン」が在って、その中に日本で唯一の「アイヌ民族博物館」がある。 
「ポロトコタン」は「ポロ(大きな)ト(湖)コタン(村)」のことで「大きな湖のほとりの村」という意味になる。コタンの入口には大きい像(コタンコルクルの像:部落の首長)が出迎え、北海道犬やヒグマの檻、アイヌの復元住居(チセ)などがある。 
チセ(アイヌ語で家)にて、アイヌ民族の楽器「ムックリ」の演奏やアイヌ民族舞踊の「イオマンテリムセ」の鑑賞をしたり、アイヌ文化の説明・紹介などをしているという。



アイヌは蝦夷地(北海道)の先住民であるが、江戸期頃より和人が各所に入植し、勢力を拡大するに従って葛藤を重ねながらも共存するようになる。 その後、明治政府の同和政策にて渾然一体となるか或いは衰退し、純粋なアイヌは近年では伝統文化を伝える見世物に成ってしまったようである。
思えばアイヌ民族は、「アメリカインディアン」やオーストラリアの先住民である「アボリジニ」などと同じ運命を辿ったことになるのだろうか・・?。 



「アイヌ」の事であるが・・、 

アイヌとは、「人、人間」を意味する。 
「アイヌ」=「人間」、つまり、アイヌ人という言い方は意味的にはおかしいかもしれない。アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで祈り、さまざまな儀礼を行う。 
それらの神々には火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、 舟、家財道具といった物神、更には家を守る神、山の神、湖の神などがある。 それらの神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶという。

アイヌ民族とよく言われるが、広い意味での民族としての分布があるようで、千島列島北端の占守島(シュムシュ島)からウルップ島までを「千島アイヌ民族」、 樺太(北蝦夷地)の南半分を「樺太アイヌ民族」、 そして日本固有の領土である北方四島を含む北海道から現在の青森県の一部を「北海道アイヌ民族」と分類出来るという。そして、これら分散しているアイヌ民族の文化圏をアイヌモシリ=「人間の国」(アイヌ=人間 モ=静かな シリ=土地)、で「アイヌ民族の国土」と呼んでいた。

又、江戸期における北海道、つまり蝦夷地を地理的に分類すると松前からみて、東の方を東蝦夷地、西の方を西蝦夷地とよんでいる。 詳しくは、渡島半島・八雲町あたりから内浦湾(噴火湾)、襟裳岬を経て知床岬にいたる太平洋岸に面した地域を指して東蝦夷地といい、これに対して熊石町以北、瀬棚、寿都、増毛、宗谷を経て知床岬にいたる日本海、オホーツク海岸の地域を西蝦夷地といっている。 
因みに、八雲町から熊石を結ぶ線から南の間を和人地と呼んでいたようである。



アイヌ人と琉球人は面相、体型、そして体質までもが似ているといわれる。 
元々、琉球から蝦夷まで古代の和人(北方モンゴロイド系人・・?)は同一人物系だったが。その後、大陸や半島からの伝来文化の影響を強く受けて急進化してきたのが和人(アイヌ以外の人々)で、ほとんど影響を受けずに小進化してきたのがアイヌと琉球人であるといわれる。


アイヌの歴史は、大和民族程の歴史ほど鮮明ではない・・!
 
それはアイヌ民族は元来文字をもっていなかったので物語や伝説、体験談や人生の教訓などの全てを口承(口伝え)によって語り継いできた、つまり文書による記録が存在しなかったためと言われる。
アイヌ民族は古来から固有の文字を持ってなかった・・!、
尤も日本のカタカナやひらがなは漢字から変化したものであり、漢字はお隣の中国から伝来したものを長いこと使ってきたもので、いわば借り物なのである。


アイヌ民族は、なぜ文字を使わなかったか・・?、

一般に、普通の人々が普通の生活をするのに文字などは必要では無いのであって、文字使用の目的、手段は主として記録として残しておく事の必要性から生じたといわれる。 それは、国家なり、支配者一族が指示命令を伝達したり、事績(歴史)の記録を残すことが、必要とされた文字記号の使用法だったと考えらるという。 
アイヌ民族にとっては社会構成上の段階的組織などはなく、従って文字の必要がなかったと、ある専門家はいう。 隣地(隣国)に和人がいて文字を使ってはいたが、江戸期の頃まではお互いに、特に文化面では干渉する事もなく、従って必要に迫られて和人から文字を吸収する必要がなかった。 
しかし、社会が急激に進歩し、明治時代になってアイヌの人々が必要と思われて日本語の文字を学べるようになった時には、今度は日本人への同化政策(アイヌの日本人化)がとられ、文字はおろかアイヌ語も次第に日常生活で使われなくなってしまった。



元々、物を書くということは「忘れないために書く」、従って「書くと忘れる」という対極の意味にもなり、書くと安心して忘れてしまいがちなのである。 
アイヌの熟年たちの話を聞くと記憶力、博識なことに驚かされるという。 必死に覚えた知識は頭の中に入っていて、何時でも取り出せる仕組みになっていたらしい。 
現代は情報化社会というけれど、我々は如何ほどの知識を蓄えているのか・・?、アイヌの知識人と呼ばれる人々はパソコンのような頭脳を持っていたのかも知れない。


次回は、引続き「アイヌの事」



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