2010年3月15日月曜日

日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」

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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」


アイヌの反乱・・、

納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。

海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。 
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。 
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。 


温根元の先に「トーサムポロ」という沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。

一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。


続いて「ノッカマップ」という地域に来た。 
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、ここも克っては多くの歴史の舞台であったという。
そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。



「クナシリ・メシナの戦い」

「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。

そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。 
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。 
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。

現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。



1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようま」(珸瑤瑁と書くが難解である)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。 


江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。 
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。 
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。

1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。 
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。


この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。 
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。 
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。


この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。 
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。

その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。

この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。 
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。


この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。 
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。

北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。 

このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。

近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)


因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。 
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。


次回、霧多布湿原 



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