google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 日本周遊紀行(46)北都・札幌  「開拓期」

2010年1月6日水曜日

日本周遊紀行(46)北都・札幌  「開拓期」

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日本周遊紀行(46)北都・札幌  「開拓期」


余市から小樽方面へ向かったが、「小樽」については、この後別途・「温泉と観光」の項で述べます。

小樽から札幌へ通じる途中に「銭函」という、有り難そうな地名がある。

銭函地区の銭函駅は海岸近くの平地にあり、駅の南に続く山裾に市街地が広がっていて、駅のすぐ西に銭函川とその河口がある。 

明治時代のはじめには、札幌へ向うのに海から至る交通上の要地であり、その後も小樽と札幌を結ぶ中継点として栄えた。 

現在の町の規模は、札幌や小樽と比肩できないが、駅舎のホーム改札口付近には「銭函」が吊るして飾られ、更にホームに大きな銭函が据えられているという。 
駅舎は昭和6年築の古い建物だとか。



その「銭函」の由来を探ってみると、ニシン漁で莫大な利益が上がっていた頃、和人が付けたらしい。 
幕末、幕府が計画した西海岸から東海岸への内陸道路の一部として、千歳街道が開かれ、この地が石狩への浜通りと内陸道路の分岐点となり交通の要所となった。 
このころから新しくゼニハコ、漢字で銭函という地名が文書に現れてくるらしい。


明治新政府となって、行政の中心が「札幌」に新設されることになり、その経営のため明治2年、開拓判官として「島義勇」(しまよしたけ)が銭函に仮役所を開いた。
島義勇は銭函を、小樽の港と札幌との中間地点としての地の利を考えたのだろう。


ところで、銭函の地名の由来だが、これには諸説があるという。

昔、ニシン漁の漁業家や漁人、また開拓人の賃金支払のために「銭函」を置いてあったとか、他にニシンの豊漁でばく大な収入があり、浜に銭の函が積まれていたから、というものである。 

だがニシンの豊漁でゼニバコだけが景気が良かったわけではなく、小樽沿岸はすべて同じだったはずだが、いずれにせよ、だれが考えたのか縁起の良い地名であるには違いない。
この年8月には蝦夷地の正式名を「北海道」改称している。


時折、金運祈願や商売繁盛を願って、記念入場券を求める人が結構いるという。




「島義勇」について・・、
新政府の議定(ぎじょう:明治政府の官制で三職の一つ、皇族・公卿・大名の中から選任された。三職は明治政府最初の最高政治機関で、他に総裁、参与がある)として鍋島の藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務に任命されると、島義勇を首席判官として蝦夷開拓御用掛に任命した。


東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ:公家、政治家)長官とともに農工民200名をともない先ず、函館に渡る。 
この時、島判官は札幌に本府を建設する特命があり、函館から陸路、磯谷、岩内、余市、小樽を経て10月に銭函に着いている。 

この間の後志の旅を『函館以北実ニ世界第一トモ可謂悪路ニテ、人馬共ニ足ヲ入ルル処無之』と記している。
困難を極めた道行きであったという。


島判官は札幌に役所の建築が完成するまで、銭函から毎日馬に乗って出かけ指揮をとった。

まず札幌まで貫通できる道路の工事をすすめる。 
札幌周辺は大木が繁茂し見通しがきかず、途中には予想もしなかった湿地帯が広がっていたという。 

島判官は毎日銭函から乗馬で往復し、道路工事や建設の進みぐあいを見て指揮をした。
時には灯油も凍るような仮小屋で、夜通し熊よけの焚火をたきながら、人夫や犬と一緒にざこ寝の夜もあったという。


判官は、銭函に着任してから1ヶ月たって、ようやく雪の中を札幌に入り、組立式の役所、住宅、倉庫などの建築を急ぎ、北1条西1丁目に官宅を築き、集議局の看板を掲げて移転した。

後年、島義勇は、明治7年江藤新平らと佐賀の乱をおこし刑死したが、北海道、そして札幌開発の祖といえる人物であった。 

現在、札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官として「島義勇」の像がある。

ところで当初、島義勇が目にした平原は(札幌)、豊平川一帯に広がる湿地帯が多く広がっていた。
もともと「サッポロ」は、現在の豊平川にアイヌの人々がつけた名で、アイヌ語で「サリ・ポロ・ペッ」(湿原が広い川)と称し、これが「札幌」の起こりともいわれる。

明治2年(1869年)に「北海道」と改称されて、開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まる直前、判官・島義勇は円山の丘からはるか東方を見渡し、札幌の街づくりの構想を練ったといわれている。 




明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植し、人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築いている。
大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口を拡大してきた札幌市は、昭和45年(1970年)には人口が100万人を突破し、国内でも堂々たる都市として認知され発展してきた。



初めて札幌を訪れた人は、「札幌は碁盤の目だけど、意外に分かりにくい。同じブロックにあるのに住所が違う」。
又、条・丁目の住所のため、市営地下鉄の駅名も「北十二条」とか「西十八丁目」などと味気ないといい、東京だと「両国」、「赤坂」などの地名を聞けば、マチのイメージが湧くのだけれど・・、札幌っ子でも「碁盤の目で味気ないし、面白みがない」と言う人が少なくない。 

これは原野にゼロから都市建設を行った名残とされ、道内では旭川や帯広でも同じ住所表示である。

因みに、同じような町並みに京都が在るが、京都は1000年以上の歴史があり、町の要所諸所に神社仏閣が一種の精神的な支えとして存在する。 

札幌の地番は、歴史の浅い都市の宿命かもしれない。



次回も北都・札幌「屯田兵と北大





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