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2010年12月20日月曜日

日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」

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日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」 ,



瀬戸内海の最大の「瀬戸」、鳴門の渦潮と大橋


洲本城址から海岸線をそのまま直進して「由良」方面へ向かったが、マリーナあたりで、沿岸を行く県道は工事区間も多く道路事情が良くないとの情報を得たので、やむなく引き返すことにした。
由良」は、淡路国が徳島藩主・蜂須賀氏の領地となり、家老の稲田氏一族が由良城代として居城していた。
古来、友が島を挟んで紀州・和歌山には至近で、浪速・大阪や紀州とも海運が盛んであった、それは南北に細長く横たわる「成ヶ島」を正面にした由良は、昔から天然の良港であったのである。 
しかし、由良の地は背後は険しい山が控えていて発展性の乏しい城下でもあった。 1631年、稲田氏は 由良の地幅が狭く城下の経営には適さないとして、城下町ごと洲本に移転することになる、所謂、「由良引け」が行われた。以後は洲本が淡路の中心となっている。


戻って、国道28の内陸を行く 、
淡路国道とも言われ中央部は松の緑の美しいところであり、その名の如くこの辺りを緑町と称している・・?。 そして、淡路島の南端の「福良」の港へ出た。
鳴門海峡を臨む「福良」は、古くから福良港として明石の瀬戸に始まり、阿波に至る阿波路の要衝として知られる。 
往時より阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれ、豪快な渦潮を眺めながらの渡海であった。近年の大正期の頃からは汽船航路、更に車社会の陸上交通の発展に伴い、四国へのフェリー航路も相次いで開設された。だが、昭和60年の大鳴門橋開通に伴い、ついに渡津としての役割を終えた。

波止場の正面にはかなりモダンな半円状の建物が在る、そこに鳴門海峡クルージング咸臨丸が停泊している。 
又、建物をくぐって海辺に出ると、次に見えたのは堂々とした白の帆船・「日本丸」で、両船は福良の港にレプリカ船として渦潮観光に活躍しているようである。

咸臨丸は、1856年オランダで建造され、1860年に勝海舟等によって日本人ではじめて太平洋横断しアメリカへ渡った蒸気帆船である、その勇姿をいまに復元したものという。 
又、日本丸は昭和5年(1930)文部省航海練習船として神戸の川崎造船所において進水した。 地球を約45周半(延べ183万KM)航海し、昭和59年まで「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれながら訓練航海に従事し、日本丸がその間に育てた実習生の数は11,500名にもおよぶという。

現役を退いた日本丸は10を越す湾岸都市からの熱いラブコールを受けたが、第2の人生を横浜で過ごすことになり、現在、帆船日本丸は、MM21(横浜ミナトミライ21)の「日本丸メモリアルパーク」にて一般公開されている。


鳴門海峡の淡路の最先端である門崎岬へ向かった見た。
先端は「道の駅・うずしお」があり、ここは既に「大鳴門橋」が頭上に架かっている。
車を置いて徒歩2~3分のとことろに観潮台があり、又、巨大な大鳴門橋の下部ゾーンが見渡せる。 小粒な人間が、これだけ巨大なものを造りだせるものなんだと承知はしていても現物を間近に見せられると、やはり感嘆し圧倒される。 渦潮は、小生どの程度の規模か判断がつかないが、左方に小島(飛島)があり、その付近が帯状に白く泡立っているのが確認できる。
多分、渦潮なのだろう、本日の潮目は何日頃なのかのか不明であるが・・?
渦潮の発生要因としては、勿論、大海の海水が瀬戸内海へ流入、流出する際、淡路島という障壁の隙間をぬって、北側からは明石海峡、南側がここ鳴門海峡の狭窄の地を直接流れこみ、渦を巻きながら激しく流動する時に起こる。

それは、鳴門海峡は中央部がぐんと深く約100mほどあり、この部分は潮流は抵抗なく早く流れる、この流れを本流と呼ぶ。 
一方、本流の両岸は浅瀬になっているため、抵抗があって流れは緩やかである。 
渦潮は、この本流と両岸の緩やかな流れの境目付近で、本流の速い流れに巻き込まれるような形で発生するという。  
大きなものになると直径20メートルにも達し、渦が巻いている時間は数秒から数十秒、渦が出来ては消え、消えては新たな渦が発生し、そして消え、また発生する。上記のようなメカニズムにより、鳴門の渦潮は潮の干満によって発生し、大潮の新月の頃及び満月の頃に最大規模になる。


大鳴門橋は、本州四国連絡橋の神戸~鳴門ルートに属し、渦潮で有名な鳴門海峡の大毛島、孫崎と淡路島門崎を結び、昭和51年7月に着工、工事費約1千億円で建設でされた。
1985年6月に開通して以来、本年(2005年)で20年の節目を迎える。
橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m、海面より45m、マグニチュード8の地震、風速83mに耐え得る構造になっているという。 橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。

しかし、本州よりの明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたため、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は無くなってしまったともいう。 尚、紀淡海峡に鉄道を通し、和歌山から鳴門に至る鉄道について、大鳴門橋を活用しようとする模索は続けられているというが、果たしてどうなることか。 

四国側の橋端は大毛島といって、一見四国本土のように見えるが、小鳴門海峡という細い海峡を挟んで、その名のとおり島である。
この島には、ほぼ中心に大鳴門橋・高速道の鳴門北I・Cがあり、又、県道11号が最北端の観潮船乗り場、記念館や鳴門公園等を経て孫崎の岬に至っている。 
小鳴門海峡には、本島へ到るのに「小鳴門橋」という赤い瀟洒な橋が架けられている。


門崎の観潮台を後にして、四国側へ渡るために一旦、淡路島南I・Cまで戻る。
因みに、淡路島は本州最大の島は衆知のとおりで、暫くは洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、平成の大合併に伴って、2005年1月には三原郡4町が「南あわじ市」に、2005年4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が「淡路市」となった。残る五色町は2006年2月11日に洲本市と合併し、新たに「洲本市」となる予定である。 したがって淡路島は北部、中央、南部の三市の行政区域になることが決まっている。

次回は、いよいよ四国で、阿波の鳴門と四国霊場「霊山寺」
(次回投稿は年明けとなります。 読者の皆さん良いお年を・・!)



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2010年12月19日日曜日

日本周遊紀行(57)洲本 「稲田騒動」

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 日本周遊紀行(57)洲本 「稲田騒動」  、



淡路文化資料館前に立つ「お登勢」の像



幕末の動乱・稲田騒動(庚午事件)について 、

国道28は、淡路東浦海道、四国海道ともいう。 
淡路島から大阪湾の航路要地でもある「津名」の港を通り、淡路の本拠である「洲本」を目指す。 
やはり淡路島の中心だけあって、街の様子も一味異なるようである。
洲本川の洲本橋を渡り、海岸へ向かうと大浜海岸の多数の老松に囲まれた風光明媚な場所に出る、大浜公園と隣接する大浜海水浴場が広がる。

一角に淡路文化資料館があった、ここはかって江戸期に洲本城の平城が在ったところで、往時の小さな石垣も見られる・・?、この正面入口に「お登勢」の像があり、下駄履き姿で水桶と柄杓(ひしゃく)を持ってニッコリ笑っている。その横に「庚午事件とお登勢」と題して、解説入りの石版が建ててあった。  

「お登勢」は、実在の人物かどうかは不明だが、(幕末期の寺田屋の女将のお登勢は、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した女性として知られるが、同名だが当然異なる・・?)作家・船山 馨の近時代小説『お登勢』は・・ 、

淡路の貧しい農家に生まれたお登勢の、けなげでひたむきな生涯を、幕末から維新へと時代が大きく変わる歴史のうねり(明治維新と庚午事件)とからみ合わせた、ダイナミックな歴史ロマンとして描いている。 この時代の女性は、その時代的制約からどうしても受け身であり、耐えることを強いられることが多いが、この船山作品の主人公であるお登勢は、恋する人との身分の差をどうしようもなく感じながらも、自分の心に忠実にひたむきに行動してゆく。 
資料館に立つ「お登勢の像」は、幕末の淡路・稲田騒動のヒロインとして建立されている。


明治維新と庚午事件(こうごじけん)について 、

時代は遡るが戦国期、豊臣秀吉によって天下は、ほぼ治まった。 
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は四国攻めに功が有ったとして、阿波の国(徳島)一国(石高・17万5千石)を与えられる。秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃、矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(蜂須賀小六、太閤記) その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた、重臣とはいっても小六とは義兄弟の間柄だったという。二人はともに豊臣秀吉のために戦い、大いなる功績を残す。秀吉は、やがて蜂須賀家を主とするようになり、稲田家はその客分として従属させた。しかし、稲田にしてみれば「わしらは蜂須賀とは同僚であっても家来ではないぞ」、という気概と気分が最初からあった。 その後、江戸期になってからは両家は相反目しあうようになり、それからの長い歳月が経って、やがて明治初期の稲田騒動につながってゆく。

この時期、蜂須賀家は阿波16万石になっていて、その城代家老としての稲田氏は1万4千を有し、所領として淡路・洲本城代に任じている。稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていた。 
又、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほど近親の間になっていた。(2代目松平阿波守至鎮・よししげ以降は松平を名乗る)
江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 蜂須賀家は、徳川家を中心とした公武合体論に終始する。 稲田家は、維新戦争の際にも多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績を残したはずであった。 このような因果で、両家は更に確執を生ずるようになる。

明治政府は明治2年、版籍奉還、廃藩置県を実施した。 
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為、その減額は甚だしく、稲田家臣は死活問題であったため、士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動を起こした。 
これに堪りかねた蜂須賀家の一部の過激派が決起し鉄砲、大砲を持ち込み洲本城の攻撃を始めるなど、一大紛争を巻き起こした。 

明治政府は仲裁に乗り出し解決に至ったが、その決断・判決は両者に厳しいものであった。 蜂須賀・徳島藩側主謀者には10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 
又、稲田家側は、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申し渡された。 
勤皇派で、明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、だが見方によっては両家の怨恨を無くする為に遠ざけた結果とも云える。この事件を庚午事変(こうごじへん・稲田騒動)と称してる。 


「版籍奉還」、「廃藩置県」とは 、

戊辰戦争終結後、勝者の官軍であった薩摩、長州を中心とした新政府が曲がりなりにも誕生し、天皇を中心とした親政政治がスタートする。
なにしろ、朝廷政治が行われていたのは平安時代であり、それ以来で実に700年ぶりの朝廷政治である。 その間は源頼朝の鎌倉幕府から徳川幕府の、所謂、武家を中心とする政治が行はれていた。 

平安期と明治の最大の違いは、外国事情を知った明治人が、外国と互して強固な国土を造ることだった、つまり富国強兵であった。 その為には中央の政権が強力でなくてはならず、封建政治(封建制度・天皇の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る組織)から天皇を中心とする中央集権国家の造営であった。 

先ず、明治2年(1869年)、中央集権を促すために全国の各藩主が旧来領有していた土地と人民とを朝廷に返還する、即ち「版籍奉還」のことで、わが国、封建政治を終結させる大変革を行った。 これは、次に行うべき「廃藩置県」の前提でもあった。

薩摩、長州、土佐、肥後の四藩が実施し、次に徳川家も同じように行っている。
しかし、版籍奉還後も旧藩主が知藩事となり、世襲制などの封建制度が存続していた。 そのため此れを更に打破すべく薩摩の西郷、大久保、大山、長州の木戸、山県、井上ら7人が中心となって合議し廃藩置県を押し進めよとしていた。
新政府出仕の主要な人物たちは皆往々にして下級武士の出であった。西郷や大久保の上に立つ、薩摩の島津久光は強固な封建主義者であり、これらを実施することは不忠者の汚名を着せられ、後々まで久光に頭の上がらないのは必定であった。

当時の武士たちにとって不忠の汚名ほど心理的に苦しいものはなかったのである。
ここで西郷は「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の趨勢である。地元については、わしが全責任を持つ、おはん等は粛々と進めよ」、この一言で策は決した。
これによって7人は廃藩置県を奏上し、天皇詔書(みことのり)により勅令は発せられ、1871年(明治4年)、廃藩置県は施行された。
明治維新の一大画期であり、一種のクーデターとも言われる。 
各藩においては、意外と騒動らしいものは無かったらしいが、薩摩藩だけは久光公が花火を打ち上げ、最後の抵抗と意義申し立てを行ったともいう。 
諸外国も日本の変革を知り、大いに驚きながら歓迎したという。

中央集権国家は固まり、明治5年「全国徴兵令」の発動、6年には「地租改正」という税制改革、学校制度の発令等々、改革的事案が速やかに実行された。
この間、初めて新橋~横浜で鉄道が走り、これを期に阿波・蜂須賀氏や元藩主による「鉄道公団」が発足し、鉄道敷設等の産業改革も着実に進む。 
始め藩主(知藩事)達は廃藩に反対していたが、先の戦争で藩財政は何処も困窮していたため、結局は承服せざるを得なかったという。 
藩は、全国におよそ300存在し、それらの藩主を云わば一様に「クビ」にし、中央が派遣した「県令・権令(権令の方が格が低い)」をその知事に任命した。
3府75県(後に少しずつ変化して行く)に振り分けられ、これによってクビになった藩主と家臣団である士族らは一斉に失職したのである。

そのころ士族とその家族らは全国におよそ190万人いて、当時の日本の人口を3千万人とすると、6.3%の人間が職を失った事になる。 これらの元藩士・家臣達は農耕、殖産、兵役や移民団の開拓へと道を開いていったのである。 
中には不平士族が反乱を起こす「佐賀の乱」(1874年、江藤新平を首領に起きた)や「西南戦争」(1877年、西郷隆盛を首領に掲げた薩摩軍と政府軍の間で戦われた日本史上最後の内乱)に到った事例もあるが。


明治3年、版籍奉還がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた藩主・稲田邦植以下137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し洲本港を出発する。 
春まだ浅い北海道の海岸に到着し、ここに淡路・稲田藩士による北海道・静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。

船田 馨作品のヒロイン・「お登勢」は、この時期、稲田藩士・津田貢と所帯を持ち、北海道移住を二人で決意する。
移住には困難が伴い、先行きに暗い影もある中で希望を捨てないお登勢の強い心に貢は励まされる。物語は、稲田藩士とその家族が新天地を目指すところで終わる。

又、北海道・静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が昨年製作された。これは製作費15億円を投じて、長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの『大作』と言われる。 
キャストに、吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子、他名優多数、本年、2005年1月大公開された。

又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ淡路・洲本を背景に描いているが、この「お登勢」がNHK金曜時代劇で、沢口靖子主演で昨年秋TV放映されている。
お登勢」と「北の零年」は登場人物こそ異なるが、まるで「お登勢」の続編を描いているようでもある。 
小生は、残念ながらNHKの「お登勢」は拝見してないが、ヒロイン・沢口靖子が吉永小百合に成り代った様である。 
尚、この記述に関しては、前編の「日本一周・東日本編」の北海道・静内の項でも記載してある


日本一周」: :http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/
北海道・静内」: :http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-11-4.htm


次回は、福良と「大鳴門橋



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日本周遊紀行(56)淡路 「日本標準時」

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 日本周遊紀行(56)淡路 「日本標準時」  ,




ライトアップされた「明石海峡大橋」


日本の時間は「明石」の時刻で決まる

念願だった本州四国の連絡橋を渡った。 
残念だったのは夜の渡橋であった。 だが、眩いばかりの光の中での「明石海峡大橋」であった。そして今朝は霞の中にボンヤリと見えている、特に、本州・明石側は霧の中に溶け込むように見えなくなっている。

この橋には、通常三原色のイルミネーションランプが取り付けられているという。 
平日では、春は緑、夏は青、秋は赤、冬は黄、そして休日は緑と青と、そして地元や国民的行事等、イベントに合わせた色でライトアップされるという。
このカラフルな色彩照明は、国際的な照明デザイナーである石井幹子氏(いしいもとこ)が担当したという。

2001年、皇太子ご夫妻に、宮様が生まれたのを記念して上部赤色、下部白色に、2002年、FIFAワールドカップ開催を記念して青色、(日本代表チーム勝利時には上部赤色、下部白色)、2003年、阪神タイガースのリーグ優勝を記念して縞模様、又、2005年のリーグ優勝では縞模様に加えて30分毎に上部赤色、下部白色のパターンなど、その時の催事に合わせて色模様を選んでいるという。 
但し、阪神・淡路大震災の1月17日だけは鎮魂の願いを込め白一色となり、ライトアップは日没から24時までであったという。


明石海峡大橋は本四架橋の三箇所のうち、淡路市(北淡町)と神戸市垂水区とを結ぶ明石海峡を縦断して架けられた吊り橋である。
全長3911m、中央支間1991 mで世界最長の吊り橋であるが、現在計画が進行中のメッシーナ海峡連絡橋(イタリア)は中央支間3330m以上の吊り橋が予定されており、同橋が完成すれば世界一の座を降りることになるという。 
明石海峡大橋の主塔の高さは海面上約300mであり、東京タワー(333m)や横浜ランドマークタワー(296m)に匹敵する。 
1998年(平成10年)4月5日に、供用が開始された。 建設費は約5000億円。建設当初は全長3910m、中央支間1990mであったが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で1m伸びたことは、先に記した。

この橋は四国と関西、更には本州の各大都市間を結ぶ交通としては、最も至近距離にあり、交通量も本四架橋の橋の中では最も多い。 
本州・淡路又は本州・四国間が陸続きになった事で、様々な利点を生じたことは事実であろう。 徳島県・地場産の農水産物の生鮮品を京阪神方面へ即出荷できるようになったともいう。


現在、時刻は午前7時直前で、所謂世間では通勤時間帯である。 
内海は朝もやがかかって、やや見通しは悪いが、大橋の上り方面、つまり明石や神戸方面の通勤と思われるマイカーが数多く見受けられる。 これも架橋の効果の一つであろう。
淡路島から四国へと、本州とは何かしら違った旅路になるはずで、気持ちも浮き浮きしているのが判る。 勿論、体調も十分である、時に「午前7時15分」である。


明石・日本標準時
ところで、明石といえば気が付いたことがある。現在時刻は『午前7時15分』である。 
これは日本全国、普く(遍く・あまねく)沖縄諸島から北海道、伊豆諸島から南海の小笠原諸島まで共通した時間である。 
では一体、日本国のこの時間は何処で、どの様にして決められるのであろうか・・??、
実は小生が現在立っているこの位置、東経135度の位置・明石の日本標準時で決まられているのである。  

海外旅行に行くと、その土地ごとに違った時刻を使っているのを体験するであろう、「時差」である。 
地球は1日1回自転している、地球から見ると、太陽が24時間かけて地球を360度ひと周りしていることになり、1時間あたりにすると、地球上の経度15度分ずつ動いていることになる。地球上の時間は、地球の自転で決められているのである。そして地球上の時間は、ある基準点で決めねばならない。 

イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線が経度を測るときの基準とされている。
これを本初子午線といい、時刻の場合も本初子午線上の時刻を世界の標準時として使用するよう取り決められている。 
そして各地の時間については、基本的に本初子午線から東西に15度離れるごとに、標準時に1時間の時差を加減して定めている。
東に向かう場合は、経度15度ごとに1時間ずつ加えていき、西に向かう場合は15度ごとに1時間ずつ減らしている。 

イギリスと日本では経度(東経)135度あり、9時間の時差が生ずる、つまり、ロンドンが午前0時の時、東京は午前9時に当たるのである。
日本では1886(明治19)年に、世界時(標準時)に9時間加えた時刻となる東経135度子午線上の時刻を、自国の標準時として定めた。それは明治天皇勅令によって決められたといわれる。

◎ 英国グリニツチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス
◎ 経度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東経ヲ正トシ西経ヲ負トス
◎ 明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム

日本の場合は、一国内で一つの標準時であるが、アメリカのように大きな国土を持つ国では時間差が大きい為、本土だけで東部・中部・中西部・西部の4つの標準時があり、加えてアラスカとハワイの合計6つの標準時を採用しているという。

日本標準時(Japan Standard Time: 略称JST)は、日本時間あるいは中央標準時ともいい、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線で、子午線上にある明石市立天文科学館がその位置に当たる。 
ここには標準時を刻む大きな時計が設置されていたが、1995年の阪神・淡路大震災で破損し停止してしまった為、現在の大時計は3代目で、服部セイコーからの寄贈であるという。


神戸淡路鳴門自動車道というチョット長ったらしい名称の有料高速道路を、すぐ隣の淡路ICで下りて国道28号を行く。 
朝日に輝く大阪湾を久しぶりに眺めながら、長閑(のどか)な海岸道を進む。 
現在、東浦町を走っているはずであるが、2005年4月1日、淡路島の北端から中央部にかけて位置する淡路町、津名町、北淡町、一宮町、東浦町の5町が合併し「淡路市」が発足している。

暫くすると広大なパーキングのある「道の駅・東浦ターミナルパーク」へ着いた。 今は時間も早く、閑散としている。 駅舎は大きな和風建築で白壁の瓦屋根は珍しく、未だ真新しい。 こちらは物産館、その他の施設であろう、ここもひっそりと人の気配は無い。この道の駅は大阪湾に面した温暖な気候で、阪神圏の行楽地として人気があるという。 
夏の海水浴をはじめ、四季を通じて花の美しさを実感できるのがうりで、海水浴場、ガーデニングセンター、パターゴルフ場、文化ホール(図書館含む)、等もあり、浦海浜公園・浦県民サンビーチは、平成13年認定の「日本の水浴場88選」(環境省)にも選ばれているとか。


東浦地区の東隣の北淡町地区は、阪神・淡路大震災のほぼ震源地にあたり、「野島断層」が露出しているのが見てとれるという。 ここに野島断層保存・北淡震災記念公園があり、学術的な価値をもつとして認められ国の天然記念物に指定されている。
又、この断層は日本国内はもとより、外国からも大きく注目されているという。

震災直後の平成7年1月31日、天皇・皇后両陛下が御来島の際に、この場所にヘリコプターで来られた。皇后陛下は、被災の状況に心を傷められ、被災者への励ましの意味を込められて詠んだ歌碑が在る。
   
『 被災せし 淡路の島の ヘリポート 
      かのあたりにも よもぎ萌えゐむ
 』  皇后陛下

次回、洲本 幕末の 「稲田騒動



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2010年12月18日土曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「阪神大震災」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「阪神大震災」  、




阪神大震災で倒壊した「阪神高速道路」(ハーバーハイウェイ)


神戸が中心だった「阪神大震災」のことである

三宮駅前正面・神戸市役所南側にある東遊園地内に「平成7年1月17日」に発生した阪神・淡路大震災の慰霊と復興のモニュメントがある。 
震災を記憶し、復興の歩みを後世に伝え、犠牲者の慰霊と市民への励まし、大規模災害に対する世界的規模での連帯による復興の意義をアピールすることを目的として、平成12年1月16日に設置された。

このモニュメントを含む東遊園地全体では、毎年1月17日にご遺族やボランティアのみなさんと神戸市によって「阪神淡路大震災1.17のつどい」が毎年開催されてる。 
又、中央区波止場町 メリケンパーク東端、メリケン波止場の一部(約60メートル)を震災で壊れた状態のまま保存しており、 震災の被害の凄まじさを目の当たりにすることができる。神戸港の被災状況や復旧の過程などを紹介してる。


阪神・淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 
淡路島及び阪神間(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・尼崎市・伊丹市・大阪府豊中市など)を中心に大きな被害をもたらし、特に神戸市中心部は壊滅状態になった。 
地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した、戦後国内での最大の震災となった。

大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話など、所謂、ライフラインは寸断され、広範囲で全く機能しなくなった。 
港湾都市である神戸は、神戸港も被害を受け多くの埠頭が使用不能となった。
また埋め立て地を中心に地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震の直接的な被害は無かったが、全長が1m伸びるという事態が発生したという。

これらの被害については、死者 : 6,433名、 行方不明者 :3名、 負傷者 :43,792名 、避難人数 : 30万名以上、住家被害 :全壊104,906棟、半壊:144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊263,702棟、火災被害 :住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 、その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所 、被害総額:10兆円規模とされる。

因みに、先の大戦で神戸が空襲などで被災した数は死者7500人、重軽傷者1万7000人と言われ、主に、終戦間際の昭和20年8月に入ってからの数字である。
死者の数こそ戦災の方が多いが、震災は1日の一瞬の出来事である。 如何に神戸の震災が甚大であったかが判る。


元々日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えうる構造であるとされていたが、ビルやマンション、病院、鉄道の駅舎などで広範囲にわたり倒壊、全半壊が多くみられた。 
特に火災の被害が甚大であった神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。 西宮市においても、住宅街に面した山腹の斜面において大規模な地滑りが起こり、多くの人々が犠牲になった。
三宮駅前に林立する、所謂ペンシルビルと言われる建物は斜めになって、隣のビルに次々寄りかかるという異常な事態になり、新開地近くの金融関係のビル群は座屈、市中を走る「ハーバーハイウェイ」(阪神高速道路)が横倒しになった。 
この凄惨な震災現場は、今度の震災の大きさの象徴的場所でもある。

一方、基礎工事がしっかりしていた最近の高層ビルは、ガラス一枚割れることなく無償であり、神戸大空襲の時に焼け残った昭和初期の建物も殆どが倒壊を免れたとも言われる。
従って、この事象による差異は、ある種の建築手法による人災ではないか、とも囁かれたが・・?

いずれにしても阪神・淡路大震災は、戦後の自然災害史上では最も大きな被害をもたらし、その後の復旧・復興過程を含めた生活への影響は実に甚大でかつ非常に深いものであった。 
戦後の日本社会が経験してきた諸災害と比較しても、被災者が受けた衝撃は余りにも大きく、被害の大きさ(全半壊家屋数、人的被害の大きさ)からも、けた違いの災害であり、被災後の社会的対応という面でも、かってない規模と内容の広がりをみせ、社会的問題が一気に噴き出した。 
それに対する行政、防災関連機関をはじめとする社会のすべてのレベルにおける対応のあり方も問われたのであった。

次回は、「淡路島



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2010年12月17日金曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「大楠公と湊川の戦い」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「大楠公と湊川の戦い」  ,


皇将・楠木正成はこの地で散った

前項で記した「源平一の谷合戦」が行われたすぐ近辺に位置する神戸・兵庫区「湊川」は、その後も軍事上の拠点ともなり、 150年後の南北朝時代において最後の決戦が行なわれた所でもある。

南朝・後醍醐天皇の「建武の中興」で天皇を支えた「楠木正成」が、反旗をひるがえし京都奪回を目指す北朝軍・足利尊氏との最後の決戦に臨むため、京都から兵庫に下る。 
途中、「桜井」(京・大阪の中間地、大阪府三島郡島本町桜井)の地まで同行していた長子・正行(まさつら)には、この地で別れて故郷(河内国石川郡赤坂村:現大阪府南河内郡千早赤阪村)へ帰るように命じる。 
正行を呼び「この世でお前の顔を見るのも最後だ。自分が死ねば尊氏の天下になろうが、命を惜しんで長年にわたる天皇への忠義を捨ててはならない」と諭す。  

別れた正成は、味方わずか七百余の勢力で、迫り来る数万の足利尊氏軍を湊川の地で迎え討ち、激戦の末に破れ華と散る。(湊川の戦い・1336年,九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫・湊川で新田義貞・楠木正成らを破った戦い)
後に正行は、湊川の戦いで父の正成が戦死したことを知り、覚悟していたこととはいえ父・正成の首級が届き、ショックのあまり自刃しようとしたが母に諭されてる。
その後は父の遺言どおり南朝方として戦い、1348年に行われた「四條畷の戦い」(河内・四條縄手)において敗北し、自刃している。



現在の神戸市中央区・神戸駅北口正面には、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った「湊川神社」があり、徳川光圀(水戸黄門・・?)自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠魂碑などが存在する。

楠木正成の命日は、670年前(1336年)の5月25日であり、偶々(たまたま)、小生の道中の昨日に当たる。 
地元・湊川神社では明治5年、殉節された5月25日に鎮座したことも併せて、氏子等が私祭としての「楠公祭」が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者行列などが執り行われた。(官祭は新暦7月12日が例祭日)


桜井の別れ』 詞、落合直文 曲、奥山朝恭

青葉茂れる 桜井の       正成涙を うちはらい
里のわたりの 夕まぐれ     わが子正行 よび寄せて
木の下蔭に 駒とめて      父は兵庫に おもむかん
世の行く末えを つくづくと    かなたの浦にて 討死せん
忍ぶ鎧の 袖の上に       いましはここまで 来つれども
散るは涙か はた露か      とくとく帰れ ふるさとへ

この歌は、昭和の初期まで国民的に慕われ、歌われた。

鎌倉時代以降は武家政権が続いたが、明治期になって再び朝廷政治へと戻る。 明治政府は、皇家の最大の忠臣者・英雄として、湊川の戦いで戦死した「楠木正成」 を祭神とした 「湊川神社」(神戸駅前・兵庫県神戸市中央区多聞通)を創建している。 
東京駅前の皇居外苑には、出陣する姿の正成の銅像が建立され、皇居の守りについている。



神戸は、江戸時代には鎖国政策のもとで外国貿易は途絶えていたが、国内では西廻り航路の北前船や内海回船の国内の要港として栄えた。
だが、江戸末期の1858年(安政5年)、日米修好通商条約により開港が決められた。 
その後、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海防のため幕臣の教育施設として、この地に「海軍操練所」を設立、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めている。 
これをきっかけに「兵庫港」として開港し、同時に外国人居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展し、「神戸」の名が著名になっていった。 
神戸」(名前の由来は前項で記した)は、勅命により正式に名付けられたという。

次回、「阪神大震災



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2010年12月16日木曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」  、


平家終焉の序章 、

昨夜、あれだけ鮮明に見えていた神戸の街は、今朝はモヤのベールに包まれてボンヤリとしか望めない。
関西圏では京都や大阪が数回、また岡山や四国、はたまた昨夜の有馬温泉といい、過去に所によっては数回訪れてはいるが、大阪と並ぶ主要都市「神戸」は一度もなかった。
結局、今回も素通りすることに、なってしまったが。

東の横浜、西の神戸といわれているが、エキゾチックで異国情緒あふれる神戸は、昔の面影を残す港の雰囲気溢れる町並みであろう。 
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。
市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、昨夜訪れた有馬温泉は六甲北麓、神戸市街の反対側に当たる。 
有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い保養地であり、今では神戸市街の喧騒を六甲山系がシャットアウトし、都市神戸の奥座敷として願っても無い至近距離、好位置にある。


「神戸」という地名 、

神戸」は、かんべ、ごうど、じんこ、こうべ、といろんな読み方が有る。
主に地域の氏神である神社の経済的基盤を支えた住民や土地の地域のことを指していて、日本各地に神戸(読みはいろいろ)という地域名として存在する。

神戸は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封(住民が租税や課役を神社に納めたり、祝などの役職を務めることで神社に奉仕した地)の集落、つまり神戸の地であったことに由来しているという。
神戸の民は、生田神社をはじめ、神戸三社(他に、長田神社や湊川神社)、市内ある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、それが、現在の灘五郷という「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地につながったと言う。
(なだ)とは本来、風波が荒く航海の困難な海のことを意味するが、酒類業界では通常清酒の主産地である神戸市東部から西宮市今津(灘区、東灘区)に至る大阪湾に面した約12kmに及ぶ沿岸地帯を指している。


気候や立地に恵まれた神戸は、すでに古代から歴史の中に登場している。
大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。
平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 
この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。 つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう、実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあった。

そうした福原の建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、遂に、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
その後の源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。

古書・平家物語には・・! 、
『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり』とある。

当時の福原の都の一角でもある平家の拠点・一の谷城は、現在の神戸市須磨区一の谷町にあたる。 そして義経が京を出発し丹波街道の篠山から一の谷へ到る途中に鵯越があるが、この地が六甲山系の西の山麓でもある現在の神戸市兵庫区鵯越町に当たる。 一の谷の逆落としを決行するのは、現在の須磨の鉢伏山(須磨浦公園)の海に向かった急斜面といわれている。
有名な「鵯越の逆落とし」で、義経を主将とする源氏軍はこの地で平家軍を破っている。 平家の予想を裏切る奇襲作戦だったようで、 平家物語には「およそ人間の仕業とは思えないことだ」と記されている。


詳細な場所については説が分かれているようだが義経は、この峻険な高地に立った時、この攻撃は無理だと内心思ったという。 傍らに居た佐原十朗義連(三浦党、三浦義連・よしつら)が、「こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ」といったという。
人の目から見るとたしかに難攻な斜面であるが、馬の目で見るとそうでないかもしれない。 三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・!。
義経の鵯越えの逆さ落しはこうして生まれたという。


青葉の笛』 ―敦盛と忠度―  

一の谷の 軍破れ         
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛


神戸の地は、150年後の南北朝時代においても再び戦乱に塗れれた。

次回は、皇将・楠木正成の最後



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2010年12月15日水曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」  、



有馬温泉立寄り湯「銀の湯」


三古泉・三名泉の一つである「有馬温泉」 、

国道176号を宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 
道端には古い道標が残っていて、これは太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道標だという。

すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。 
六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。
灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。

蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。
ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。
寒天といえば長野県中部の諏訪地方が全国一寒天の生産地である。
寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。

テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようである。 
テングサは天草と書くが、一昔前は「心太草」とも書き、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。 このトコロテンを寒晒したものが寒天である。
食用としては太古の奈良時代以前から食されたようで、当時は僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。
今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。


西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。
清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 
主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ。
左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。 伺うと「銀の湯」は開業しているらしい。

有馬温泉の由来は神代の時代に遡るという、三古泉・三名泉の一つである。
孝徳天皇が妃ともに有馬温泉に滞在中、待望の皇子が生まれたので名を「有間」と名付けたといい、後の有馬皇子である。 
有間皇子は、大化の改新や皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さで散っていった悲運の人である。 日本書紀には、皇子は奇しくも紀州・白浜の湯で政変を企んだとのかどで絞首にされたと記されている。 奇しくも生死とも温泉に関係した皇子であった。

中世には清少納言は枕草子で有馬温泉に言及している。
太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、秀吉は有馬を何度も訪れている。
温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられていたが,極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘され、当時を偲ぶことが出来るという。 現在,太閤の湯殿館という資料館が開設され,遺構が保存されている。


大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。

車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう。
西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。
この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れていた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。
丁度この地に「太閤の湯殿館」というのが在り、秀吉の湯殿跡といわれるところらしい。
念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。

温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った。
金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ。 
中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった。 せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂も欲しいところであるが。 

先ずは有馬の湯に浸かる、金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。
情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという。
さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである。

銀の湯の裏手高台に温泉神社があった。
南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているといい、草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されている。


温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で断念し有馬を後にした。
一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにした。
夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる。 対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた。

次回は「神戸


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2010年12月14日火曜日

日本周遊紀行(55)宝塚 「女の城に日本の紳士」

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日本周遊紀行(55)宝塚 「女の城に日本の紳士」 ・



女の城に日本の紳士がいた・・!  、


尼崎での鎮痛な気分を切り替えて、有馬温泉へ向かうため幹線道2号線から地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。 
阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。 西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 

宝塚、西宮郊外、芦屋は六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 
特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 
宝塚市は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名であり、美しき女性専門の歌劇団の所在地でもある。 又、関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。


夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 間もなく緑豊かな公園の中に「手塚治虫記念館」(「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「火の鳥」などアニメ、漫画で知られる手塚治虫は宝塚出身)があり、その隣に巨大な建造物、赤い屋根の豪奢な建物が直ぐ目の前に現われてきた。
赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている宝塚歌劇団の本拠地、「宝塚大劇場」である。
数々の名公演や名女優を輩出した女性憧れの地、女の園であり、又、東京宝塚劇場や東宝系の映画制作、映画館の元祖とも言うべき本山でもある。

 
宝塚という場所は、元々は温泉地であったらしい。
宝塚電鉄並びに宝塚歌劇団の創始者小林一三翁が鉄道の乗客誘致のために温泉を作り、その余興として1913(大正2)年16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」が宝塚歌劇団の前身であった。 そして翌年の1914年(大正3年)、プールを改造した劇場で初演の幕が上がり、間もなく1世紀にわたる歴史が始まったという。


宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地において、花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 
劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。 音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校である。
各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。
歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・!これは余計・・。



次に、今度は女性の事でなくは男性の事なのである 、

話は大きく転じて、
先の大戦(太平洋戦争)での敗戦の結果、占領軍が上陸して大臣、閣僚のお偉方が平身低頭して右往左往する中、ただ一人、占領軍・司令長官・マッカーサーに「NO」といった男・「白州次郎」のことである。 
この地、宝塚市は白洲家の出身地であり、白洲次郎は1902年(明治35年)、に生まれている。 
英国留学、更に英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得、終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。

先ずエピソードを一つ、
彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとした。マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。その瞬間、白洲は怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、“その辺に置けとは何事か・・!”」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意して鄭重に贈り物を置いたという。 これらの振る舞いにマッカーサー及びGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。
GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・!」と称している。 
彼の一言は重要である・・!!、あれから今日までの幾星霜、「日本国憲法」はどうなっているか・・??。

サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されているが、この時予定としてはGHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。 
これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。
吉田首相に独立国の面子として日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら日本語で演説していたのである。 

白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。 
吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ。

その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。
幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。

ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 
日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも保留又は撤回されている。
2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会でも「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっている、しかるに21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。

このブログを書いている最近(2008年11月)になっていて、現在の総理大臣は代わりに代わって麻生太郎氏である。 奇しくも麻生太郎は、当時、憲法草案に当たった吉田茂の孫である。 果たして、吉田茂の側近であった白洲氏が、「GHQによって創られた日本国憲法は、作り替えねば戦後は終わらない・・!」と言わしめた現憲法の事が、麻生氏の頭の中に有るかどうか・・?見守りたい・・!!。
特に憲法問題は、北朝鮮における拉致(人攫い問題)を含む南北統一問題、北方における領土問題、中国の東シナ海問題にも関連してくる・・!。

【追記】
NHK総合が、激動の昭和史を駆け抜けた一人の「侍」―白洲次郎・伝説の生涯を初ドラマ化!放送は2009年2月28日(土)から放送された。
白洲を異色の俳優・伊勢谷友介、妻の正子を中谷美紀が演じるほか、岸部一徳(近衛文麿役)・原田芳雄(吉田茂役)など白洲の親子愛・夫婦愛を描いている。


大阪、尼崎、宝塚と巡って記録に留めたい事がある・・、
1995年(平成7年)1月17日、阪神大震災が発生してから丁度10年目に当たる。 
道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない。 巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?、又は完全復興したのであろうか・・?、
しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという。
午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。死者:6,433名、 負傷者:43,792名、避難人数:30万名以上、被害総額:10兆円規模といわれる。 大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。

尚、「阪神大震災」については、更に「神戸」の項で記載します。

次回は、「有馬温泉」



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2010年12月13日月曜日

日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」

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日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」 .



鎮魂の尼崎に、「千の風・・」が舞う、

今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという。
小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう。 
その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。

この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌でもあり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌でもあるといわれる。 
人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。

この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 
又、美しい曲を聞いていると「それ」を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・!。

この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 
10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。
震災の回忌・追悼式や慰霊祭は元より、教会や各地各所、各人が寄り添って、この「千の風になって」を演奏し、唄われるという。

過ぎ去った時間を墓の前で悔いる人達を、彼らは『 空や木々の間を吹き渡っていて、死んでなんかいません 』と言う。 
慰霊や鎮魂は死んだモノたちではなく 残された者達の為にあり、過去を悔いながらも 墓の前にひざまずく足が、又、希望へと前に進めるようにと。

2005年には、地元・宝塚歌劇団が阪神大震災から10年のチャリティーコンサートとして歌はれ、又、劇映画も製作され、本も出版されたという。 
2004年には、前述の盲目の沖縄のテノール歌手「新垣勉」が唄った。 
この頃はまだ世間には知られていない流行以前の曲であったが、やはり全盲の歌手として活躍している「塩谷靖子」氏の優しい歌声と深い表現力が話題になり、あの、聖路加国際病院・名誉院長「日野原重明」の推薦するCDが新聞などの報道により話題を呼んだという。

その後、やはりテノール歌手の「秋川雅史」や「中島啓江」などによって唄われている。 
特に、この詩を新井満が日本語に訳し、曲をつけたものを、NHK紅白歌合戦(2006年)では秋川雅史がこの歌を熱唱し、多くの人々に感動を与えた。 
その後、問い合わせが殺到、翌年1月のオリコン総合チャートで1位を獲得している。

これらの歌詞は、新井満や塩谷靖子氏らによって翻訳詩、作曲されている。
また、海外では米国での「アメリカ同時多発テロ事件」(2001年9月11日)で亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。 
米紙によるとすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したといい、1987年には女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。


ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、原歌曲は一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、 甚だ、興味津々である。
以前、朝日新聞の「天声人語」(新聞の一面コラム・囲み記事、短評欄)に、「誰が創ったのか判らない一編の短い詩が、欧米や日本で静かに広がっている。 愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である」とある。

この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)という、アメリカ人女性が書いたのが最初の詩とする説が有力であるという。
メアリーが同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなる。しかし、当時のドイツは、反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかった、そのことが原因で落ち込んでいた、そこで彼女のために一片の詩を書くのである。 
メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に一息に、込み上げる詩を書き付け、紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの、私の思う《人の生と死のあり方》なの、あなたのためになるかどうか分からないけど・・」
マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。 「私この詩を一生大切にするわ」、暫くして、彼女の家族の友達が、詩をはがきに印刷して人々に送り、これが人々に「人伝い」で広まった、これが最初のだといわれる。

そして、明らかになった事実は、メアリー・フライが友の癒し・追悼の為にこの詩を書き、この詩になんら「著作権」が設定されていない事実であった。 そのため、人々は自分の文体や言葉で自由に表現でき、その人の共有財産になったという。ということで原作者の彼女は、一銭の報酬も受けていないのである。
この件についてメアリー本人は次のように話している、「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ、今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・多分」


千の風になって』 原作詞:アメリカ メアリー・フライ 訳詞・作曲:新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています

『A THOUSAND WINDS』
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.


次回、女の城・宝塚に「日本の紳士



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2010年12月12日日曜日

日本周遊紀行(54)尼崎 「惨劇、そして悲劇」

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 日本周遊紀行(54)尼崎 「惨劇、そして悲劇」  ・



写真:事故直後の現場(読売新聞社提供)


写真:事故現場の報道陣、正面は仮祭壇



あの日を忘れない「尼崎の悲劇」 、

大阪城のすぐ北を国道1号線が走っている。
この国道1号は、JR大阪駅(私鉄・梅田駅)の駅前の主要十字路でR2(国道2号線)に引き継いでいる。
国道1号線は、東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田新道までおよそ570km、途中横浜・静岡・名古屋・京都と主要な都市を結び、都市圏の産業道路であったり、名所の箱根や浜名湖畔沿いなど変化にとんでいる。 
もちろん現在の東海道の主役は新幹線や東名・名神高速道路であるのはいうまでもないが、地域の生活や産業にしっかり密着している国道のスーパースターである。

そのR1からR2に乗り継いで・・?、兵庫の六甲山麓の有馬温泉へと向う。 
その途中でもあり、邪心とは承知のうえで「尼崎」に寄ることにした。 邪心としたのは、その付近で最近(4月)大きな鉄道事故が発生していて、その現場を参見するつもりであるから。

大幹線道路、大型貨物車がゴーゴーと走る阪神工業地帯の真っ只中の尼崎駅前付近から、右方向の地方道へ入ってようやく開放された。 
工業地らしく大小の会社工場が乱立していて、近くをJR福知山線が走る、この線が東海道本線と合流する地点駅が尼崎駅である。 
そのすぐ北側を名神高速道が走り、福知山線と交差する辺りが悲しい事故現場のはずである。車をグルグル走らせて、どうやら目的の地へ着いたようである。


報道記者が数人カメラを持ち、高さのある脚立を構えて立っているし、ガードマンも直立不動で事に当たっている。 
車を「日本スピンドル」という会社工場の正門横に置いて、小生もカメラ片手に神妙に出かけた。
すぐ福知山線の踏み切りに来た、開かずの踏み切りでなく開けっ放しの踏み切りで、人も車も常時往来自由である。
無論、ここは事故現場で、この鉄道の列車は運休中なのである。 
右方のレール上はバリケードがしてあり、すぐ横にTV映像でも何回も見せられた白の幕で囲われた仮祭壇らしきものがあった、こちらは裏側にあたるのだろう中の様子は覗い知れない。

鉄路にそって、あの高層のマンションが立つ。 このマンションの地下駐車場に、事故列車の1両目の車両が殆ど突っ込み、死者凡そ30人を出した所でもある。
2両目は、この建物の前方に激突し、くの字にへしゃげて大破、死者およそ70人、そして3、4両目は脱線した衝撃で180度前後が入れ替わり大破した、死者4~5人出している・・!!。
この電車の乗客は約540人というから、死亡率18%、負傷率79%にもなる。


現場に居合わす鉄道関係者は基より報道、ガードマン、それらの人々はいずれの顔も強張って、堅そうで、緊張感のなかで脱力している。 
見れば、行き交う人々も表情は重く、何か悲しげである、この地上に居る人達は皆、そのようだ・・! 時折、子供のカン高い声が響き、車の行き交う無味は騒音が耳に届くが、否、この場に在る空気や人々の雰囲気が重いばかりでなく、周辺地域に住む人達も本来の笑い声は暫くは聞けないだろう、家族の対話も、近所の茶飲み話しも。 

あれから1ヶ月少々、こらから蒸すような暑い夏がやって来て、更に、悲しみの熱風が辺りを支配し、威圧し、人々は更に無口になってゆくだろう・・!。 
辺りを支配している死に到る悲しげなウメキの声が途絶えるのは、一体何時になるのか・・?苦悶の霊が漂い浮揚していて、怨念を負っている107の霊は、そう単純には仏となり得ず昇天は出来ないだろう・・!。 
それらの霊を救済する天女が現れて、元の晴れ間に戻るのは何時になるのか・・?、
やがてやって来る秋の涼風が吹く頃か・・?、天女が涼風に乗ってやって来て、これらの霊を慰め、静かに抱えて天界に同伴してくれれば良いが・・!。
その頃になって、世間からやっと人々の本来の笑い声、歓声が聞こえて来るかも知れない・・!。
それらが少しでも早からんことを本当に願い祈るのみである・・!。

小生も、邪心ながらも現場に立っていても悲惨で、遣り切れなくて、胸が詰まり、切なくなって、何か込み上げるものを禁じ得ないのである。 今は、ただただご冥福を祈るばかりである。
思えば、この事故は東京地区でいうなれば、品川駅近くで山手線か、京浜東北線かが事故を起こした様なものだろう、所謂、都市型の事故である。 
それは本年(2005年)4月25日の午前の事であり、この事故を一般に「JR福知山線脱線事故」と称している。 


2005年4月25日午前9時18分頃に、JR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口~尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。
事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の右カーブ区間、塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。
事故列車は宝塚発、片町線(学研都市線)の同志社前行き上り快速電車である。列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。

余り知られてないが、同時刻には並行する下り線に新大阪発⇒城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であった・・!!。
だが幸いなことに、事故を目撃した近隣住民の機転により、近くの踏切の非常ボタンが押され運転士が異常を察知し、凡そ100m手前で緊急停車したという。 そのために、二重事故が回避されているのである。 
曲線区間の制限速度は70km/hであるが、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。この時の列車の運行時間は定刻より1分30秒程遅れていたとか。

救助作業は、昼夜を問わず24時間続けられ、3日後の4月28日に終了したという。
事故の犠牲者は、運転士を含む死者107名、負傷者は555名。 犠牲者の多くは1両目か2両目で、殆どが多発性外傷や窒息で亡くなっていて、所謂、クラッシュ症候群(挫滅症候群・ざめつしょうこうぐんともいい、身体の一部が長時間挟まれるなどして圧迫され、その解放後に起こる様々な症候をいう)という二次性の疾患も確認されている。

事故の規模は、死亡者の数に限定するならば戦後の旧国鉄時代を含めると1962年の三河島事故(この時は二重事故・死者160人)に次ぐ大惨事となり、JR発足以降に限定すると1991年の信楽高原鉄道(正面衝突・42名が死亡し、614名が重軽傷)での衝突事故を抜き、史上最悪の鉄道事故となった。


107人もの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故において此の程、人命救助に尽力した人に「紅綬褒章」が授与された。 その中の一人に浜崎節美さんがいる、事故の時、近くを通りかかり、とっさに踏み切りの非常ボタンを押して対向の特急電車が突っ込む二重事故を防いだのである。

又、事故直後、近くの機械メーカー「日本スピンドル製造」では、斉藤社長号令の下に即時操業を中止し、社員全員工場から毛布、医薬品、工具を持ち出し救助に当たった。 トラック等も全車出して怪我人を乗せ、現場と病院をピストン輸送した。 
褒章を受けた両名は、「光栄に思う、と同時に戸惑いも感じる。それより何よりも、ご遺族と負傷者の皆さんを思うと心が痛む。」とコメントしている。
たまたま、この会社の正門横に車を止めていて、小生自ら撮った写真に社名が写っていた、確かに事故現場はすぐ前であった・・!!。

因みに尼崎は、先の(1995年1月17日) 阪神・淡路大震災で死者49人、負傷者7145人を出している。
(平成17年:2005年5月下旬訪問)

次回は、更に尼崎、「千の風になって


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2010年12月10日金曜日

日本周遊紀行(53)大阪 「大阪城」

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日本周遊紀行(53)大阪 「大阪城」




「太閤はん」の天下の象徴は、何といっても「大阪城」、



道は谷町四丁目に至り、既に大阪城の一角で巨大な天主閣が見えてきている。

ところで、谷町四丁目を「谷四」、天神橋筋六丁目を「天六」というように、○町△丁目を「○△」と頭で略す独特の習慣が大阪にはある。
東京の人は、銀座四丁目を「銀四」と言ったり、新宿三丁目を「新三」と言ったりはしない。これらも、大阪人の「いらち」の特性なのであろうか、ともあれ大阪は地域に土着し、それらを愛称で呼んでいるのである。


早速、近くの大手門前の広場にヒョイと車を置いて、カメラ片手に出かけた。
大手門は大阪城の正門で、良く整備された広い上り坂の頂にどっしりと構えている、別名で追手門ともいう。 続いての多門櫓も迫力あり、城郭に近ずくにしたがって、巨大な造り、文字通り天を突くような天守閣の威容が迫る。

城郭は、概ね白を基調としたもので、各層の壁に切妻風の屋根型を嵌め込んで、独特の偉容と豪壮感を形造っている。 破風部分(日本建築で屋根の切妻についている合掌形の装飾板)の飾りもいいが、切妻の壁の上部と左右部に金色で施した装飾が光輝いて、華美を誇っている。

大阪城は、大阪の象徴であり、誇りである。
築城者は、大阪で最も親しまれている、あの「太閤はん」である。


歴史は遡る

大阪城は室町時代の僧・本願寺第八世の蓮如(れんにょ)に始まるのである。
他宗派に押されていた浄土真宗は、本願寺(京・西本願寺)を中興し、現在の礎を石山の上町台地の北端にある小高い丘に本願寺別院として「石山本願寺」を造営した。現在の大阪城の地である。
寺院とともに町屋も出来、周辺を寺内町と称した。
ここが台地にそった坂の上にあることから「小坂」と言っていたが、後に「大坂」と呼ばれるようになったという。 
これが大阪城の起こりであり、地名も大阪に成っていった。


要塞化した門徒集団の本願寺と風雲の「大阪城」

戦国期には、城郭に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。 
織田信長との石山合戦は良く知られているが、この時は、主に篭城戦で戦ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に顕如は敗北する。 
信長が、本能寺で逝った後、石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始し大阪城とした。 
完成に1年半を要したが、本丸は石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施され、城のすぐ北部には大淀川が流れ、堀溝を築いて水を引き入れ、天然の濠としている。 

しかし、当の秀吉は京都の聚楽第や伏見城に住んでいて、大阪城を居城とはしなかった。 
秀吉死後は、遺児の豊臣秀頼が母(淀君)とともに大坂城に移り、徳川幕府の成立後も秀頼は大坂城に留まり摂津(大阪)を支配していた。 

1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」で徳川家康の率いる大軍に、さしもの大坂城も落城し、豊臣氏の滅亡とともに大阪城は落城し灰燼に帰した。
江戸期は幕府直轄領(天領)として、徳川秀忠によって再建が始められる。 
大坂城をより豪壮な城郭として、豊臣時代の城を圧殺するかごとく全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示したと言える。 
現在の天守閣は概ね、この時代のものである。

幕末、鳥羽・伏見の戦いで、城内の建造物はほとんど焼失し、昭和の太平洋戦争では、1トン爆弾が多数投下され、猛烈に破壊された。 
そして、昭和期、平成期、天守閣の大規模な改修工事が行われ現在の城郭・天守閣が完成する。
歴史の大波にもまれにもまれた五層の大天主・大阪城も、今は平和日本の象徴として浪速の空に聳え、大阪の民の安穏を祈り見下ろしている。 



現存、最長記録の大阪城

因みに、豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になっていて、国の登録文化財でもある。 
登録文化財 (登録有形文化財)とは、文化財登録制度(文化庁'96~)により、文化財登録原簿に登録(リスティング)された建造物などを指し、名古屋城、熊本城と共に日本三大名城の一つといわれる。

現在の大阪城天守閣は、内部が豊臣秀吉や大阪城にかかわる豊富な文化財を収蔵する歴史博物館となっており、シアタールームやジオラマなどを使ってわかりやすく歴史を解説している。
地上50mの展望台からは、大阪の街を一望でき、天守閣を含む周辺一帯は大阪城公園として整備され、桜の名所としても有名。
又、櫓、門の各種建物の見所も多く、各施設、神社、お城に関する七不思議等、多数の名所がある。


普請大名自慢の大阪城石垣

しかし、何といっても大阪城の特徴的な見所の一つに、お城を取り囲む「石垣」であろう、この石垣は主に江戸初期のものであるという。
天下の徳川幕府は、主に西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせた。 
この時の石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれ、工事を請け負った大名達は、自分の「」をその石に刻み込んだ。その石のことを「定紋石」と呼んでいる。 
長州の毛利家、日向・薩摩の島津家、岡山の池田家、松江の堀尾家など諸大名の家紋が刻まれているという。

徳川・「大阪城」の石垣用石材は約百万個と推定される。
これらの採石場所は加茂(京都府)のほか、六甲(兵庫県)や小豆島(香川県)など、瀬戸内一円から切り出されたことが知られている。
巨石のビック5は、一に桜門の蛸石(59.43m2・備前犬島・岡山池田家)、二に京橋門の肥後石(54.17m2・讃岐小豆島・岡山池田家)、三に桜門の振袖石(53.85m2・備前犬島・岡山池田家)、四に大手門の見付石(47.98m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)、五に大手門の二番石(37.90m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)等などである。

小生は、大手門よりの入退出であったため大手・見付石(4位)と大手二番石(5位)を拝見、その圧倒的な大きさに驚愕しながらカメラに収めた。
因みに両石は、巨石と巨石の隙間に、笑い積みというユニークな石積みが施されているという。 石の隙間が、笑った口の格好に、なんとなく見えることから笑積みという。 
徳川大阪城建設の際の、担当大名 加藤忠広(秀吉子飼いの重臣・加藤清正の次男)の遊び心が冴える石垣であるという。
忠広の父・加藤清正は、名城・「熊本城」の築城者で知られる。

次回は、悲劇の「尼崎



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2010年12月9日木曜日

日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」

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 日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」 




四天王寺の境内の西側入口にあたる「石の鳥居」と奥は「極楽門(西門)」


写真:石の鳥居側(西側)から観る。五重塔と金堂(左)


「四天王寺」は日本仏教の最初の寺

この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「」、「」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。


その四天王寺へ向う・・、

環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。
でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。

そこには「大日本仏法最初四天王寺」と刻した石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。 
鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。


本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「」である。その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。 

四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つである。 
因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の木の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。 
気がつけば銅と木と石、即ち、金属と木製と石造りという取合せが面白い・・!。 
因みに、銅の鳥居の金峯山寺も寺院であった。

四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であり、どこか誇高いことを感じさせくれる。 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。 そこをくぐって四天王寺の巨大な寺舎堂宇が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。


四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院であるが、しかし、不思議な事に、それらしい荘厳な雰囲気や古刹寺院のもつ格式のある信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素による参拝の人々の賑わい等が全く無く感じられないのである。 
今はただ閑散としていて、これは大阪という大都会の真ん中に静かに鎮護しているためであろうか・・?、もっとも是は、訪れた時の小生の瞬時の私観ではあるが。
   
四天王寺は推古天皇の御世、西暦593年に造営が開始され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたものといわれる。
四天王とは、仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指しているという。

この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。 

四人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。 いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。

渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。 
この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。

四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。 


四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古いという。 
飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。

仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)と物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。蘇我氏と対立して敗れる)の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで仏教を世に知らしめ、布教するために四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという。 

隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいたという。 
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。

しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。 
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。


四天王寺の宗派について、

四天王寺は、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、近年、四天王寺独自の「和宗」とし、その総本山としているようである。 
因みに、小生にも若干縁のある「信州長野・善光寺」は誰でもお参りできる無宗派のお寺として知られる。 
それは、善光寺が仏教伝来直後の日本で初めての仏様を本尊とした、日本仏教の根源であると考えられてきたためで、つまり、日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建されたことに大きく関係するという。
但し、日本に仏教が始めて伝わってきた当時は、大陸や朝鮮半島では大乗仏教とされる「天台宗」が盛んで、日本でもその布教当時は影響は受けているとされている。 
従って、両寺院とも、今でも天台宗系の教義や管理運営、日常の作法、行事を主体に努めているようである。(善光寺は、浄土宗と両立)


境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺を手がけたのは6世紀(西暦578年)に聖徳太子が百済から招いた三人の工匠たちであったという。 
その一人の名を「金剛重光」といって、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。 

現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆という名称は現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めるという意味らしい。


ところで、四天王寺は過去に七回、焼失や倒壊の憂き目にあっているという。 
信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲などで破壊され、その都度再建してきてのは金剛組であった。
状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった。 この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。

室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。 金剛組は同じ轍を踏むまいとして、主な建物はやむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。 
四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺(かねじゃく;形が矩形、すなわち直角に曲ったものさし)を持つ像とともに、御堂を寄進している。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。 
老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。

次期、「大阪城



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2010年12月8日水曜日

日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」

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日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」


水の都・大阪は浪速とも云われる

大阪市内に入ると、水辺や橋の多さに驚く。 
古来、譬え(たとえ・引き合いに出す)として、「大江戸八百八町」、「京都八百八寺」、そして「浪速八百八橋」といわれる。 江戸は町屋が多く、京はお寺が多い、そして、大阪は橋が多いという意味である。 
大阪は古くから都へ通ずる水上交通の要地で、江戸期には幕府直轄地として庶民、商人の町として繁栄し、出船千艘、入船千艘と謡われたれた。

大阪は浪速・難波・浪花とも読まれるが、昔は「なにわ・浪速」といわれ古代の日本書記には、たくさんの川があって、いずれも流れが急であったので「浪速・なみはやの国」と名付けられていたという。
又、大阪の古い呼称で「浪花・難波」ともいって、共に水に縁があるのが面白い。 大阪は、やはり「水の都」といってもよい。現に、中ノ島などは川の中洲にある官庁・オフィス街である。

又、この地域は、やはり水運に関連した「船場」があり、往時の周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが軒を並べ、政治、経済、流通の中心地となっていた。 
江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心ともなっている。 
現在は、東西南北の船場が有り、大大阪の中心地として繊維問屋や商社、証券会社、銀行等が集中しており、大阪より発生した大商社・伊藤忠商事や丸紅などは、この船場を出発点とする企業だと言う。
中ノ島の北側を流れる堂島川は、江戸期には水上交通の要衝であり、米市場があって相場をなし、いわゆる相場の発祥地でもある。ここで大阪商人により江戸をはじめ全国各地へ送られていった。

難波は「なんば」ともいって、道頓堀以南、浪速区の北部にわたる一帯を指し、私鉄・地下鉄の難波駅がある。 
大阪の広域的な通称で、「キタ・北」や「ミナミ・南」と云ったりすして、北は、大阪駅を中心とした北区辺りを指し、南は、通天閣のある天王寺、難波を中心とした地域を指しているようである。 
所謂「ミナミ」は、難波、道頓堀、心斎橋、法善寺横町、天王寺といったエリアで食い倒れ、難波花月、ひっかけ橋(戎橋)といった、いわばコテコテの大阪的なものは全てここに集まっているとされる。
さしずめ、難波は、南場といったところか・・?。

小生、20代後半の頃、仕事で国鉄・大阪駅(現、JR大阪・・乗り入れてる私鉄の駅名は何故か梅田駅という・・?)から難波の南海電鉄で堺東へ何回となく行き来し、ついでにミナミでよく遊んだのが懐かしい。 


因みに、大阪駅、梅田駅については、

大阪駅は北区・梅田にあっても国鉄、JRの駅であって、所謂、広域的な全国区である。
梅田駅は同地域に在っても私鉄や地域鉄道が主で、所謂、地域的名称であり、地元っ子に言わせても「梅田」が適っているという。 例えていえば、JR東京駅が丸の内にあるから丸の内駅、なんて名前だったらやはり可笑しいし、丸の内にあってもやはり全国区は東京駅である。

ミナミの中心とも云える上本町、千日前の繁華街道路は、さすがに車も人も多い。 疲れ気味の小生の運転では余程神経を集中しないといけないようだ、要注意、要注意・・!!。

そういえば大阪人は人も車も、交通マナーの悪さは日本一だと言われるとか・・?。
大阪人の気質をあらわすのに、「いらち」(苛ち)という言葉がある。 意味は、いらいらする、せっかちであるで、単にせっかちな人ではなく、現時のその人の状態、人々の様子をいっているようである。
例えて「あんた、ほんまに“いらち”やなぁ、」といい「あなたは、本当に、せっかちで、すぐイライラする人ですね、」という意味であるとか。 
赤信号、皆で渡れば怖くない」、この言葉遊びも大阪から発信されたものというが・・?。 併せて、違法駐車なども多いというが・・?。

とかく大阪人は、「マナーが悪い」、「自分勝手」といわれるが、こういった気質の裏返しには「権威」や「お上」の対する、ある種の反骨精神もあるという。 
江戸の権威に対して、こちらは「上方」と言っている、お上をあてにせず、権威に媚びず、笑いのネタにして、笑い飛ばす気質があるのかもしれない。 
大阪人の挨拶に「もうかりまっか・・!」、「ぼちぼちでんな・・!」という、所謂、曖昧表現がある。 だが、その裏にはしっかりと計算された胸三寸もあるとという。 
このことは特に、日本人独特の表現の仕方でもあり、外国人には意味不明で理解できないらしく、日本人の曖昧さ、いい加減さは存外、この大阪あたりが発祥なのかもしれない。

しかし、大阪人は大阪の「橋」をはじめ、国公立大、病院、大阪城・天守閣等、私財を投入した大阪商人をはじめ、民間人によって建てられたという。 これらを見ても大阪人は、自分で出来る事は自分でする、といった独立自尊の哲学、精神があり、これらから単に自分勝手で意味不明とは云えない様でもある。


さて、その「」である、
東京は「大江戸・八百八町」、京都は「八百八寺」、そして大阪は「八百八橋」と言われるほど川筋、掘割、橋が多いことでは前述したが、この道の界隈は心斎橋、道頓堀、御堂筋といった、いわば大阪の顔とも言える主要な筋、道が走る。
一般に大阪は道のことを筋といって、○○筋というのが多数ある。道頓堀の東西には道頓堀川が流れて、両川筋は「法善寺横町」、「宗右衛門横町」といった、唄でも御馴染みの歓楽街が並ぶ。
又、この川を跨いで「戎橋」、「相合橋」が両横町を交んでいる。

御馴染みの「戎橋」は、2003年の阪神タイガース優勝時、又、2002年のワールドカップ(コリア・ジャパン)での日本勝利・決勝トーナメント進出時には、この橋から道頓堀に飛び込む若者が相次いだ(この飛込みで死者も出した)。 
又、この橋は、客引きやナンパも多く、通称「ひっかけ橋」、「ナンパ橋」とも呼ばれるらしい。「難波のナンパ橋で軟派した」など洒落としても面白が、天下に知れた名物の橋である。

2005年の「阪神」優勝時には、大阪市がフェンスをめぐらして警察官を配置するなど対応をしたが、その目を掻い潜って道頓堀に飛び込む若者が少数ながら存在したという。
これも、大阪人の反骨精神の表れかもしれない・・!!。


大阪ラプソディー』 作詞 山上路夫

あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道
映画を見ましょうか それともこのまま
道頓堀まで 歩きましょうか
七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
宵闇の大阪は 二人づれ恋の街

次回は、大阪・「四天王寺」 



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2010年12月7日火曜日

日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」

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 日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」 



岸和田「ダンジリ」のポスター


「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い

加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へ乗り、岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。 


岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと、
現在の岸和田地区は南北朝時代の初めの頃は、「」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。

江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。
これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。
江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。


岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。
岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く四輪で重い物をひく車のこと。 

「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。

だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。 
辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。
遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。 
遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。


この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。

氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。
だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。


冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!。
その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。
ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。
正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。 
河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。

鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。

1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた) 
鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。 
尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。 
足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。 
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。 正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。 この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれる。


東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている。
北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。 
その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。
飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。

では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。 そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。

金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。 
又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。

次回、大阪の「浪速とミナミ



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01. 15.

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