google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2009-11-22

2009年11月28日土曜日

日本周遊紀行(29)竜飛崎 「階段国道」


竜飛名物、国道339号・「階段国道」



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「階段国道」


小泊から山上の展望地へはヘアーピン道路が蛇の如くうねり、車もエンジン・フルスロットルで喘ぎながら上る。
目を転ずると、これから向かう「竜飛の岬」が突き出てるのが鮮明だ。

最北の展望台からの眺め、そこは風の名所なのであろう「風の岬」とも云い、そのため風力発電の風車が林立している、そして突端に竜飛崎灯台が鮮明に望まれる。 
又、遥かな遠望は大地・北海道の山並みであろう、その海岸沿いに松前・・?の町並みがボンヤリと覗える。 


先へ進もう・・、 

今度はカーブラインをゆるやかに下ってゆく、しばらく走って待望の「竜飛崎」へ到着した、日本本土、本州の最北端である・・?。 
本当の本州最北端は実は下北半島の大間崎であるが、でも、多くの人は「地果てる処、北の最果て」といえばここ竜飛崎とイメージしているようである。


名前もいい・・、
地面を這いまわってきた覇者である「龍」もこの地で尽きた。
この先は海に転げ落ちて海上を這うか、天空に飛び立つしかないのである。 そして覇者・龍は蝦夷へ向って空へ飛び立ったのである。 
即ち、「竜飛」である。



ところで、「」と「」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、概ね土ヘンの「埼」を用いているらしい。


例えば、東京湾付近では一般地図などには野島崎・観音崎・剱崎と「山ヘン」で記載されているが、「海図」には「土ヘン」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しているという。 
土ヘンの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山ヘンの「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻先等を言う意味らしい。 

旧海軍による海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しているらしく、即ち、小生の手元の地図では竜飛「崎」であるが、海図では竜飛「埼」となるらしい。


この岬の名物に、歩行者しか通れない階段国道339号線)というのがある。 

石畳の階段が小高い岬の頂部と海岸の底部を結ぶ、幅2m程度の狭い石段の端と中央部には手摺が続き、両階段の入口には通常の国道の案内標識がある。 

階段は全長390m、階段は362段あり、標高差が70mもある、かなりの急勾配で険しい。

元より、「国道339」は弘前市を基点に津軽半島西岸を回り、半島先端部の三厩村に到る120kmの国道である。


国道階段の発生、いきさつ・・?、

竜飛崎は、海岸からは切り立った断崖のような段差が大きく、元々は急な山道で未整備だった地域道・村道がそのまま国道になったものである。 


つい近年の事であるが・・、

地元の人が「昭和49年頃、村役場が地図に記入し、国道昇格の申請をしたところ、審査官が現地を確認しないまま認可を与えてしまった」という。
中央のお役人が国道を指定する際、現地を検分することなく地図だけを見て、間違えて指定してしまったそうである。 

国道に指定されるまでは階段はなく、急な坂道であったらしい。 
途中には村立竜飛中学校、また坂の上には竜飛小学校があり、登下校の児童・生徒が坂道を利用していたものの、後に、濡れ手で滑って負傷しないように階段が整備されたという。


昭和63年3月には、本州と北海道を結ぶ青函トンネル(全長約54キロ)が開通した。

竜飛は、本州側の建設拠点となったため、当時、工事関係者や家族ら約三千人が居住していて、無論、階段通路は通学路、生活路となって利用されていた。
「階段国道」は、子供たちの元気な声がこだましていたのである。 

・・ということで、階段のあるチョット変わった国道になってしまったのである。

その後、青函トンネル工事の完成と同時に「国道階段」は観光名所となり、より良く整備されてそのまま残ったという。 
今では階段国道はすっかり全国的にも知られるようになり、竜飛崎の目玉といえる程の名所になっている。


下側(海岸)から階段へ通ずる「国道」は、民家の軒と軒の間を通ずる幅1.5m程度で、両手を広げると付いてしまいそうな狭さであった、これまたビックリ。 
なんとも不思議な国道である。



因みに、変わった国道として、海の上を指定した例がある。

国道280号は、青森市から北海道函館市までの一般国道である。 外ヶ浜町で一旦途絶えているが(松前街道ともいう)、津軽海峡の海上区間は「海上国道」として北海道へ至り、北海道内は国道228号と重複して函館市に通じている。 

又、「点線国道」というのもある。 
通行困難な国道の最も代表的なもので、大抵の場合、山岳地の峠周辺に存在するため、利用者はその区間は徒歩での通行(登山)を余儀なくされる。 
代表例で上越国境、国道17号の三国峠(1957年2月に三国トンネルの開通により解消)や同じく、上越国境(一ノ倉沢-清水集落)の国道291号の「清水峠」は現在もそうである。 

又、甲州・秩父を結ぶ甲州往還、国道140号の雁坂峠(「開かずの国道」と呼ばれていたが、1998年4月に雁坂トンネルの開通により解消)などで、これらはトンネル開通で解消されたが、今も現役の点線国道は10箇所以上存在するという。




引き続き「竜飛崎」



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日本周遊紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」


十三湖より日本海(この地域に中世、安東氏が東日本随一の湊を築いた)


日本周遊紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」



湖の北側に「十三福島城址」がある・・、

福島城は十三湖の北岸、標高20メートル程の台地上に位置し、城郭は一辺約1kmの三角形をしたもので、往時は城を取り巻く内郭、外郭は総面積62万平方米にも及ぶの壮大な規模であったという。
その後の発掘調査で巨大城郭福島城については、通説に反して、「古代城柵」にも似た構造を持ち、平安中期の10世紀後半ころの築造である可能性が強くなったともいわれる。

城柵は、丘陵の突端などに空堀や土塁を築いたもが主体で、アイヌの「チャシ」などもこれに当たる。


この福島城の築城は、藤原秀栄(ひでひさ:十三氏)であると言われる。

平泉の藤原基衡(もとひら)の次男・秀栄は、父基衡から津軽三郡をもらってこの「十三の地」の領主となり「福島城」を築いた・・、 秀栄は、後に「十三氏」と名乗っている。 
基衛は御存じ藤原三代の二代目で秀衡の父に当り、即ち、秀栄と秀衡は兄弟で、その弟に当るわけである。 

家督を継いだ秀衛は、中央政庁より49歳で鎮守府将軍に任じられているが、源義経を向い入れた為、その死後に頼朝によって、藤原三代は滅ぼされている。
一方、それ以前の平安期、「前九年の役」の源頼義によって厨川で滅ぼされた安倍一族は、落城直前に津軽に逃れ「藤崎」に住み、安東氏と称したことは、先に記した。


鎌倉初期に至って北条・幕府は、その安東氏を蝦夷地代官として任命し、津軽内陸を直轄領とするそのため安東氏は、藤崎(津軽平野)より十三(津軽半島)へ進出することになる。

必然・・、
十三氏と安東氏は衝突することになる。 
安東氏は鎮圧の名目で北津軽へと進軍、同族といわれる十三氏と争う、これを「津軽・萩の台の合戦」といって、鎌倉初期の1229年の事であった。
結果は、安東氏が十三氏を破り、福島城と十三湊を治めたとされている。

福島城に根拠を持った安藤氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけては非常に広い範囲に影響力をもっていた豪族とされ、その勢力は北は北海道渡島半島、南は太平洋側の仙台湾・松島、日本海側の秋田男鹿半島、東は下北半島に及んでいたという。

安東氏の拠点・十三湊や福島城は、中国や沿海州・朝鮮とも交易していたのであり、日本海沿岸の諸国と交易していた事は、最近の発掘で大量の輸入陶器が出土したことにより示されている。
この港の収益は莫大なものであったに違いない。
この交易が安東氏の絶大な力の根源であった。
近々、城郭の遺跡からは、その国の人々の異人館やキリスト教会がなども発掘されているという。


時代は下って・・、
15世紀の室町中期、十三安東氏は、その後台頭してきた南部氏に敗れ蝦夷地・松前へ逃亡することになる。(蝦夷地・北海道で記載予定)

更に・・、
戦国期になって、南部氏の家臣で一族の大浦為信津軽氏)が独立して津軽地方を平定し、「大浦氏」より再び「津軽氏」に改姓したことも、先に記したが、いずれにしても津軽及び十三地方は、平安中期より安倍氏、藤原氏、安東氏など「前九年の役」の主役たちの流れた地であり、それも突然の大津波に襲われ一夜にしてその栄華は衰退し、十三湊で栄えた安東水軍もそれ以来勢いを失い、南部氏の侵攻などもあって遂にはこの地を追われることになる。
時代は巡っているのである。

今の十三湖周辺は、かつての国際港の面影や威容を誇った城は、夢の跡が残るのみである。だが、近年の発掘などにより、昔の姿が次第に解ってきているという。

十三の砂山』 津軽民謡
十三の砂山 ナーヤーエー
米ならよかろナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

弁財衆にゃナーヤーエー
弁財衆にゃ西のナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ


弁財衆」とは・・、 

江戸時代日本海を往来した商船、北前船のことを弁財船といい、江戸と大阪の二大中央市場を軸とする航路による経済発展に貢献した。
近世では、弁財船に乗っている船頭衆のことを弁財衆と称していたが、平安時代には、国領や荘園などに設けられた役職のことで、貢納された租米を計算し処理する役目の事であった。 

「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞には、弁財衆によって米を取り立てられる農民の苦しみをコミカルに、切実に言い返しているという。

次回はいよいよ竜飛崎へ

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2009年11月26日木曜日

日本周遊紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」



  十三湖より岩木山の遠望



日本周遊紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」



例の「こめ米ロード」の直線道路を北上すると、広大な「十三湖」にぶち当たる。

十三湖は、海水が入り混じった汽水湖で遠浅の湖岸は、シジミの特産地でもあるとか。 
美観のある立派な「十三湖大橋」は日本海と十三湖の接点部を跨ぐ。
もちろん橋の上部からは両方のパノラマが大きく広がる絶景である。 

この辺りでは、車をユックリ走らせて海岸線から湖面まで伸びやかに広がる景観を楽しむ。 
海岸も良い、鯵ヶ沢から十三湖辺りまでの海岸線を「七里長浜」といい、平均高さ1~2mの砂丘が延々と連なっている。 

志士・「吉田松陰」が竜飛崎への途中、余りの絶景に心を躍らした処でもある。


「十三湊」について・・、

この「十三湖」周辺は、以前から「十三湊」(とさみなと)という都市が、中世期の頃存在していたことは古文書などでは知られていた・・が、
近年まで湊、町または都市としての十三湊は地理上では明確になっていないという。 
ところが最近になって(1990年以降),砂丘に埋もれた中世の港町・「十三湊」が発掘され、その姿を現しつつあるという。 

その場所とは主に、日本海と湖とに挟まれた細長い砂上の地域に、領主館や武家屋敷、町屋等が現しつつあるという。 
まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である。


十三湊は、鎌倉期・12世紀後半から凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。
当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 
この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。 

津軽平野の中央に位置する「藤崎町」に、安倍貞任の次男・高星丸(たかあきまる)が逃れ、安東と称して津軽地方を治めたことは、前回、記した。
安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 

特筆すべきは、室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は、普通、木製品が中心だったが、この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。 

湊としては、当国(日本)の「三津七湊」の一つであるといわれた。 

三津七湊(さんしんしちそう)といわれる地域は・・?、
室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集ともいわれる「廻船式目」のことで、この中に日本の十大港湾が記されていて三津、七湊の港湾都市の事を指していた。 

「三津」は伊勢・安濃津(津市)、筑前・博多津(福岡市)、和泉・堺津(堺市)であり、
「七湊」は越前三国湊(坂井市)、加賀本吉湊(白山市)、能登輪島湊(輪島市)、越中岩瀬湊(富山市)、越後今町湊(直江津→上越市)、 出羽土崎湊(秋田湊→秋田市)、それに津軽十三湊

(市浦村→現、五所川原市)のことであった。


さて、十三湊の中世(鎌倉、室町期)の頃は・・、

朝鮮半島や大陸との交易で栄え、日本海交易が発達していった。 
その当時の遺物として、今の所、中国や朝鮮からの輸入陶磁、能登の珠洲(すず)焼き、古瀬戸焼きなどの陶磁器類が中心で、日本から中国への輸出商品は、海獣やラッコの皮など北方の産物などとされている。

又、木簡のような文字史料も含まれており、今後の検出が待たれるという。一方、中世の遺跡としては、城館や城下町の発掘調査が行われ、次第に明らかになりつつある。
港町も、 例えば博多や堺などのように、その後の都市開発によって大きな面積が調査できない場合が多いといが、その点、いったん幻と化していた「十三湊」は、それだけに十分な調査実施に魅力があり、港町の姿や流通のあり方の解明につながる可能性も秘められているといわれる。


室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 
その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。

その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 

この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。


現在、十三湊の今の姿からは、当時の繁栄の模様を全て伺い知ることは難しいとされる。
それは大津波によって、軒をつらねた商家も、郡をなす商船も、そして壮大な城塞や湊も一瞬にして湖底に沈められたからであるとも云われる。

又、次の時代の統治者であった「津軽・南部氏」は回船、交易には全く無頓着であったため十三湊は廃れたともいう。

それでも十三湊は、近世江戸初期の頃までは北前船の寄港地として川船で岩木川を下って来た農産物、米穀、木材を十三湊まで運び、鯵ヶ沢湊を中継地として大船に乗せ変え、日本海から関西方面へ運ばれる所謂「十三小廻し」というのも行われ、小規模ながら活動していたらしい。 

明治維新以降は、日本海側諸港の殆どは鉄道、道路の普及で次第に廃れていったという。
現在は「十三湖」の湖面だけが、キラキラ光って、輝いている。

次回、更に「十三湊と福島城」


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2009年11月25日水曜日

日本周遊紀行(27)津軽 「津軽地方」


晩秋のお岩木山


日本周遊紀行(27)津軽 「津軽地方」



「十三湖」の前に「津軽地方」について・・、


「津軽平野」からは、大抵の場合「岩木山」が望めるといい、地元では「お岩木さん」といって親しまれているようである。

この辺り冬は豪雪地帯である。 
映画・「八甲田山」で、弘前第31連隊の徳島大尉以下数名が一列縦隊になって、白銀に染まった岩木山をバックに「雪の進軍」を唱和しながら、八甲田への冬季訓練と称しいて雪中行軍をするシーンを思い起こさせる。

明治35年のことであるが、同刻に青森の歩兵第五連隊と雪の八甲田での同時演習のはずだったが、青森隊は雪中行軍の演習中に、記録的な寒波に起因する猛吹雪と酷寒に遭遇し、210名中199名が遭難したのである。 
所謂、「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生しているのだが、これも後ほど。



津軽平野に聳える岩木山は、標高1625mと、富士山の半分もないが、付近に高い山が全く無いため、その標高以上に高く、雄大に感じられる。 
その美しい山容は、見栄っ張りで、じょっぱりな(強情な)津軽人の自慢の種で、岩木山こそ日本で一番美しい山で「富士山は駿河岩木じゃ」と言って強がっているようである。

その優美な姿は、「津軽じょんから節」など津軽民謡の中でも謡われて、『あ~富士に劣らぬ津軽のお山、お山眺めてお城の花見、仰ぐ天守は桜の中よ。  あ~りんごかわいや色こそ可愛い、岩木お山に生まれて育つ、わたしゃ津軽のりんご娘』と。

広い津軽平野にドーンと座ったような岩木山は、東西南北どの方向からでも良く見える。 又、見る方角により、その姿を多少は変わるが、どれも美しく・・、その周辺地域の人々は自分の方から眺めて「おらげのお岩木(おいわぎ)が一番じゃ・・」と美しさを自慢し合っているという。



岩木山周辺から湧き出す「平川」等の幾多の支川を合わせて「岩木川」を形成し、弘前市付近から津軽平野を貫流し、十三湖を経て日本海に注いでいる。
岩木川は、流域面積のうち約70%が山地、30%が平地であり、他の河川に比べて極めて平地面積の割合が大きいといわれる。
その「津軽平野」は青森県水田面積の約5割を占める穀倉地帯であり、中流域はリンゴの特産地であることは、万人が知るところである。



岩木川の沖積作用によって出来た広い津軽平野・・、

この「津軽地方」は奥羽山脈によって二分されていて、太平洋側の「南部地方」とは自然環境や農業環境では対象的に異なるといわれる。 
尤も、津軽と南部は自然ばかりでなく、人間も大違いで、現代においても何事によらず合い争うと言われているが、この事は(津軽・八戸周辺の項でも記したい)。

本州の北端にあるため、両地方とも冷涼型の気候であり、冬が長く夏が短いのは共通しているが、しかし、津軽地方の気候は冬は積雪量が多く曇天の日が続くが、夏は気温も上昇して稲作も安定している。
一方、太平洋側の南部地方は、「ヤマセ」(夏、北海道・東北地方の太平洋側に吹き寄せる東寄りの冷湿な風、稲作に悪影響を与える)という独特の風の影響に悩まされる。 
このため津軽地方は豪雪地とはいえ、米とリンゴが産業の基幹をなしているのは周知である。



米に因んでだか・・、
この津軽地方には、「こめ米の道」というのがある。
半島の付け根、日本海に面していて、地図を見ると広大な地に湖沼群が点在し、道路だけが舗装されていて一直線に延びている。
この道を「こめ米ルート」と呼んでいて、地図にもそう記載してある。


岩木川の沖積低地には米作、岩木山の傾斜地や岩木川の自然堤防上にはリンゴが栽培されている。 「自然堤防」は,沖積平野を蛇行する岩木川が洪水のたびに川からあふれ、その水が川岸に土砂を堆積することによってできたもので、水面より2~3はメートル高く浸水の恐れが少ないため、その部分は集落やリンゴ園として利用されているという。  
青森リンゴの栽培は、全国のほぼ半分を占めており、依然として津軽は日本一のリンゴ生産地、リンゴの故郷なのである。

春、桜の散った後には,リンゴ園は白い花で埋まる、「津軽富士」はリンゴの名称でもある。



次に、「津軽じょんから節」のこと・・、

津軽地方の「津軽じょんから節」は、黒石の「川原節」が元祖であるともいわれる。
津軽民謡の三大節の一つでもある。(他に、あいや節、よされ節)

戦国末期 (1597年)、大浦為信(津軽氏・津軽弘前藩初代藩主)に攻められ、城中城下350年の間、津軽平野で繁栄してきた領主・千徳家(せんとく)は滅亡した。 この時の落城悲話として「じょんから節」がうまれたと伝えられている。 

この時、城下寺院の「一の坊」の僧・常椽(じょうえん)和尚は主家の必勝を祈願し、神仏の加護を念じていたが、ついに夜明けともに大浦勢の攻撃は一の坊にも及んだ。 常椽和尚は山伏姿となり、先祖代々の位牌を背負い、群がる敵兵に薙(なぎなた)を揮いながら東の南部領をめざして難を逃れようとしたが叶わず、遂に、白岩の断崖から濁流に身を投じ、その一生を終えたという。 

数年経って・・、地元民が常椽和尚の変わり果てた屍を見つけ手厚く葬って、常椽の墓と名付けた。 そして、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。


それから毎年お盆になると、村人はこの墓所に集まり供養をし、千徳家全盛時代の昔を偲んで城主をはじめ先祖の霊を慰める盆踊りを行い、即興的な唄を歌った。 
これが常椽川原節、変じて「じょんから節」になったと伝えられる。


津軽じょんから節』 青森県民謡

ハーアー
富士に劣らぬ 津軽のお山
お山眺めて お城の花見
仰ぐ天守は 桜の中よ・・、

ハーアー
りんごかわいや 色こそ可愛い
岩木お山に 生まれて育つ
わたしゃ津軽 のりんご娘・・、



津軽半島の核心部である・・?、半島中央部に「金木町」が在る。

金木町(かなぎまち)は、津軽三味線の発祥地でもあり、又、一昔は「太宰治」、今は「吉幾三」の出身地としても知られる。 

津軽三味線は、津軽地方で誕生した三味線で、本来は津軽地方の民謡・「津軽じょんから」などの伴奏に用いられるはずだが、現代は、特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合も多いという。
撥(ばち)を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く、音数が多い楽曲に特徴があり、最近では吉田兄弟や上妻宏光らの若手奏者が、独奏主体あるいは競演による演奏スタイルが確立している。  


太宰 治(だざい おさむ)は1909年(明治42年)、県下有数の大地主である津島家に生まれている。
小説家・作家、本名、津島 修治、 著名な作品では「富嶽百景」「斜陽」「人間失格」などを書き、戦後の流行作家となった。 
自殺未遂を数回重ね、遂に1948年(昭和23年)、東京・玉川上水にて入水心中を果たしている。 
享年39歳、 若いね・・!。 

太宰自身は、生まれ故郷の金木町の事を次のように評している・・、
『私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。 どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。 私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。 私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた』と書いている。 

惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。
更に、『金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口5、6千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。 善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである』・・と。



そして「吉幾三」である・・、

吉幾三は1952年(昭和27年)金木町に生まれている。 
本名は 「鎌田善人」(かまた よしひと)といい、演歌界では特異な存在で、演歌のシンガーソングライターとしてほとんどの曲を自ら作詞作曲している。 

普通、演歌の世界は作曲家や大御所歌手への弟子入りなど徒弟制度的な色合いが強く、歌手は「先生」や「師匠」からいい曲をもらえるのを「待つ」しかないと言われる。 その点、常に自作曲を歌う「吉」のような立場は例外的と言える。 
恩人で盟友と言える「千昌夫」に影響され、バブル経済期に莫大な投資を行い、バブル崩壊で大損害を被った・・と、自虐ネタを披露することも多い。 

酒豪としても有名で、「志村けんのバカ殿様」に出演するときは必ず、度数の高い酒を持参して志村けんと共に飲むのが恒例であったという。 「バカ殿」を困らせる数少ない人物でもあるとか。 
名曲『津軽平野』は、演歌好きの小生にとって十八番(おはこ)の一つでもある。 しみじみとしたメロディーで歌い易く、詩の内容も良い。

 

津軽平野』(昭和61年) 吉幾三 詞曲 唄 千昌夫

津軽平野に 雪降る頃はよ
親父ひとりで 出稼ぎ支度
春にゃかならず 親父は帰る
みやげいっぱい ぶらさげてよ
淋しくなるけど 馴れたや親父

十三湊は 西風強くて
夢もしばれる 吹雪の夜更け
ふるなふるなよ 津軽の雪よ
春が今年も 遅くなるよ
ストーブ列車よ 逢いたや親父



「水森かおり」の歌でも知られるようになったJR五能線・五所川原駅で津軽鉄道に乗り換え、20分ほど電車に揺られると「金木駅」に着く。 

「津軽鉄道」は、冬はストーブ列車、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車と、風情を生かした特色ある列車を運行しているので知られる。


次回、市浦・「十三湖」




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2009年11月24日火曜日

日本周遊紀行(26)鯵ヶ沢 「鯵ヶ沢と津軽氏」

日本周遊紀行(26)鯵ヶ沢 「鯵ヶ沢と津軽氏」


日本海に出ベソのように突き出た半島を黄金崎といい、別名・舮作崎というらしい、難解な読みで(へなしざき)というらしい。 
この岬には有名な「黄金崎不老ふ死温泉」があるが、こちらは別項「温泉と観光」で述べたい。


夕日の町「深浦」の湾曲した入江を左にまわりこみながら更に北上する。
時折、日本海の美しい海岸を見ながら、やがて津軽半島の付け根に当たる鯵ヶ沢に着いた。 

港の周辺は、うらぶれた家並みが海岸伝いに続く。  
鯵ヶ沢」は一見、古い町並みが軒を連ねる北国の寂れた街、という感じであるが。しかし、鰺ヶ沢は今でこそ普通の港町、漁港であるが、往時は大隆盛を極めたという。

江戸期、津軽藩の城下町・弘前と並ぶ代表的な町としてその名を馳せた。特に御用港として北前船(きたまえぶね)の寄港地であり、 北は北海道から西は日本海の諸港を結び、関門海、瀬戸内海から大阪まで至り、交易港としての一世一時代を成した。

鯵ヶ沢は、「商船70艘、御役船60艘、合わせて130艘」などと古書にも記されている。 

しかし、明治期には青森港の発展、鉄道の普及などによって次第に港の勢いが衰え、後期になると交易港としての役目は終わったようである。 
だが、大正期にはニシンの豊漁もあり、漁業の町として一旦、繁栄を取り戻したようだが。


縄文期のころ・・、

鯵ヶ沢町では、ほぼ全域から縄文時代の遺跡、遺物が発掘されているという。
しかも、縄文の前・中・後期と層をなして出土している一帯もあることから、縄文時代から長く人々が暮らしていたものと考えられている。 
すぐ近くの青森の「三内丸山遺跡」は余りにも有名になったが、いずれにしても津軽、陸奥地方は古代「縄文王国」が在ったことは確かなのである。
(「三内丸山」の項で、更に「津軽と縄文」について記したい。)


時代は大きく下って、15世紀の足利・室町時代・・、

南部氏(平安末期、甲斐出身の南部光行が初代)が、現在の青森県から岩手県にかけての支配していた頃、南部氏の一族であった「為信」(南部・久慈氏といわれるが)が大浦城(岩木町、弘前より西へ5km程)の大浦氏に婿養子となって移り、大浦家の後を継いでいる。

その後、為信は本家・南部家の内紛の間隙を縫って、たくみに津軽全体の支配に成功したといわれる。
津軽全域の支配が完成したころから、「大浦氏」をやめ「津軽氏」と名を改めている。


ところで、近世を通じて、津軽藩と南部藩は非常に仲が悪かったと言われる。(今でもそうらし・・?。)それは、津軽氏の前身大浦氏が、本家南部氏に“弓を引いて”独立したことが原因らしい。

しかし、一般にいわれるように、大浦氏=津軽氏の独立は南部氏に対する謀叛とか反逆とかと云うものではなく、元来、津軽地方における領土権は未だ不確定だった時であり、南部氏が領有化したのはきわめて正当なであったともいう・・?。
為信は、安藤氏(後述する)に対する西海岸一帯の守りのために、赤石川の中流域の種里城に入る。  
このことが、鰺ヶ沢湊の発展の礎となる。


為信は、豊臣秀吉の小田原参陣によって津軽領有地の本領を秀吉から安堵され、更に後の家康に仕えて近世大名として生き残ることになるが、為信はその頃、津軽の本拠を「弘前」に置いて町造りに精を出す。
更に、「関ヶ原の合戦」においては軍功を挙げ、4万5千石の弘前城の津軽藩・初代城主となっている。 

江戸時代に入り、「鯵ヶ沢」は津軽藩の御用港として全盛期を迎えるのである。 
鯵ヶ沢で、今も盆踊りのとき唄われる「鯵ヶ沢くどき」や「鯵ヶ沢甚句」は、このころ船乗りたちによって伝えられたものだといわれる。 

『鯵ヶ沢甚句』  青森県民謡
西の八幡港を守る       鯵ヶ沢育ちで色こそ黒いが
主の留守居は         味は大和の
ノオ嬶ァが守る         ノオ吊し柿
ソリャ妊ァ守る         ソリャ吊し柿
留守居はノオ妊ァ守る    大和のノオ吊し柿
    ヤァトセ、ヤァトセ 

何やら歌詞が意味シンの部分もあるようだが・・?、


時代は更に、古代・平安期まで遡ります。  
 「岩木山」の東、弘前の北、津軽平野の中央に位置する「藤崎町」は、「前九年の役」の厨川(くりやがわ)の合戦で敗れた安倍貞任(あべさだとう)の次男・高星丸(たかあきまる)が逃れた地とも言われる。

紀元後の有史以来、津軽地方は奈良、平安中期頃までは華々しい歴史上の表舞台には登場していない。
その頃の陸奥、出羽は蝦夷(エミシ)の地であって、後に大和朝廷の支配に属するまでは。 

九世紀頃の平安初期になって、東北蝦夷は概ね大和朝廷(坂上田村麻呂)により平定されるが、朝廷に帰服した陸奥・俘囚(ふしゅう)の長であった安倍氏の威令が津軽地方に及んだ後、歴史の表舞台に登場することになる。

「俘囚」とは、朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した豪族、豪民のことであるが・・、俘囚長と称した安倍氏 、俘囚主を称した清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏などがこの地方に勢威を張り、権勢を振るうようになる。 
即ち、安倍氏から藤原氏への変遷は奥州の役と言われる「前九年の役」、「後三年の役」の後のことである。


この騒乱に敗れた安倍氏の子息が津軽に落ち延び、安藤高星(あんどうたかあき:後に安東と名乗る)と名乗って、やがて代々津軽地方を領する豪族に成長してゆく。 

安東氏は、鎌倉期から津軽地方の支配を認められ、北条氏(鎌倉執権)を通じて鎌倉幕府の支配下にも組み込まれていった。 
その後、鎌倉時代から南北朝時代を通し津軽・十三湊を本拠地とし栄えることになる。

安東氏の支配地は、内陸部から得る利益は少なかったが、日本海に大きな交易網を形成しており、それによって巨万の富を得ることで栄えた「海の豪族」と称された。 
さらにその勢力は津軽海峡を跨いで蝦夷地にまで及び、安藤康季は奥州十三湊・日之本将軍と称し、天皇もその呼称を認めていたということが知られている。 「津軽地方」が大きく飛躍した時代であった。 

次回、そして話は十三湖・十三湊へ。



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2009年11月23日月曜日

日本周遊紀行(25)岩崎村 「世界遺産・白神山地」

概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等を
ピックアップして、当サイトに紹介致します。


神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。

『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着


日本周遊紀行(25) 岩崎村・「世界遺産 白神山地」
 
能代より海岸沿いの国道101号線を北上すると、間もなく「是より青森県」の標識が有った。
そして、白神山地の山襞(やまひだ)が海岸まで迫出している。 

日本海より競り上がり、延々と続く山並みの「白神山地」は、平成5年(1993年)「屋久島」と共に、世界遺産(自然遺産)に登録された。
「世界自然遺産」登録地域は、中央部の核心地域と周辺の緩衝地域に分かれ、これらの地域は世界遺産登録時より以降は開発を行わず、現状のまま保護される事になっている。


「白神山地」の特徴は、殆どが「ブナ林」に覆われていることである。

白神山地には人間活動の影響をほとんど受けていない源流域が集中し、世界最大級といわれるブナ林が広域に渡って、ほぼ原生そのままの姿で残されている。
そのブナ林内には多種多様な植物群が共存し、それに依存する多くの動物群が育まれ、自然の生態系がありのままの姿で息づいている。

山地は、名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはなく、市街地のそばにあるようなブナ林が巨大化したものと考えるのが妥当である。
世界遺産の登録は、観光地であるからではなく、このような広大な原生林が世界的に珍しいためなのである。


「世界遺産」とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然などである。 
人類が共有すべき普遍的な価値をもつものを指し、文化遺産と自然遺産及び文化と自然の複合遺産の3つに大別される。 

なお、白神山地は、文化遺産である法隆寺地域の仏教建造物、姫路城、屋久島とともに、日本で最初に世界遺産として登録されている。
世界遺産・白神山地の詳細は下記、「日本の世界遺産」をどうぞ・・!!
日本の世界遺産


ところで、白神山地を構成する自然林、原生林である「ブナ」について・・、
「ブナ」(山毛欅、木片に無・「橅」と書く場合もある)とは、ブナ科ブナ属の木で落葉広葉樹、温帯性落葉広葉の樹林を構成するとあり、椎茸栽培以外にはあまり役に立たない木であったために伐採を免れたとも言われる。

ブナは沢山の小さな実を付けるために、果樹と同様に寿命がさほどでもなく、平均寿命は200年ほどであるとも言われている。
自然に放置して倒れたブナは、他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給する。 

「白神山地」のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られるが、400年以上のものも確認されているという。

ブナの樹皮には地衣類やコケ植物が付着生育している。
それは樹皮が剥がれ落ちないというブナの性質による要因も大きいが、幹を雨水が流れ落ちることも関係が深い。降雨時にブナ林を歩くと、幹に勢いよく雨水が集まって流れているのに驚かされる。
ブナの樹形は、水を集めるようにできているらしい。

このような幹を伝う流れを「樹幹流」といい、この樹幹流は単に雨水が集まって流れているのではなく、栄養分が多く含まれているのである。 
それはブナの樹幹が、水に養われる地衣類(菌類と藻類との共生体)やコケ植物の生活場所となっているためである。
 
ブナの樹幹を伝わって流れてきた水は、ブナの根元で地中に吸い込まれ、地表を流れる水は見えなくなってしまう、地面に吸い込まれていくのである。 
ブナ林の土壌は豊かであり、黒い土の中にまるでスポンジに吸い込まれていくように雨水が吸い込まれていく、一般にこれらの土壌を「腐葉土」という。


ブナ林の発達する冷温帯は、夏の間は結構気温が高いので植物の生産性は高い。 
しかし、暖温帯に比べて有機物の分解速度は遅く、差し引きとしての有機物の蓄積度は最も多い地域である。 
この厚く積もった有機物を多量に含む土壌が大量の水分をため込むことができるのである。 無論、土壌動物もたくさん生息しており、土壌構成を良好なものにしている。 

ブナ林は「緑のダム」とも呼ばれるが、それは地上部の植物部ではなく、ブナの作り出した豊かな土壌が雨水をため込むのである。




十二湖の「八景池」と玉池

五能線に、「十二湖」という小屋風の無人駅が有る。 そして、海岸に沿うR101の道路標識は、十二湖方面を指している。
十二湖は、世界遺産・白神山地の海岸に近い一角を占めている。
標識より2~3km内陸へ向かうと直ぐに十二湖が現れ、そこはすでに深山幽谷の世界であった。

「十二湖」は江戸時代・宝永元年(1704年)この地を襲った 大地震によって沢が堰き止められ、地盤が陥没して形成されたといわれている。
その時できた湖沼は33を数えたが、「崩山」の頂上から眺めると、小さい池は森の中に隠れ、大きな池だけが12個見えたことから、「十二湖」といわれるようになたという。

十二湖は、広大な森が本来の姿のまま保護され、植物の種類の豊富さは全国的にも稀な地域といわれる。 
近隣にはブナ林が密集し、それらの水分の含有量が多いため、自然の造った水桶あるいはダム、しかも自然の浄化装置を持つ、水質の良い水が各所で湧き出している。 
湖の総数は約30以上在り、それぞれ透明度は高いという。

因みに、「十三湖」というのが、この先津軽半島の市浦村にあるが、あちらは湖の数とは無縁のようであるが、これから訪れる予定である。

白神山地をはじめ日本の世界遺産は下記
日本の世界遺産

次回は、津軽・「鯵ヶ沢」


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01. 15.

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