2009年10月24日土曜日

日本周遊紀行(5)諏訪 「御柱祭」

日本周遊紀行(5)諏訪 「御柱祭」

御柱
奉納された「御柱・心柱」

御柱の意外性・・!!

その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 
天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 
上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 
上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。

祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。

天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かなおんべ(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が御柱祭である。

この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが。
古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。 一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。

「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。 地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている。
古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名であるが、高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。 超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 

諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。
現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 
諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。 大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。

御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。 祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。
柱は、神の依代(よりしろ)である。 御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。

日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある。
五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいう・・。
それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている・・、その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると・・。つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。

先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。
柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。
我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。

かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。
仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない。

序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる。1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。
建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。
古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。

次回は信州・松本

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2009年10月23日金曜日

日本周遊紀行(4)諏訪 「諏訪地方」

日本周遊紀行(4)諏訪 「諏訪地方」






諏訪の地は「御柱祭り」一色であった・・、



御柱祭り<

秋宮の「御柱祭り」風景



周遊中の今年(2004年)は諏訪の街とその周辺は7年ぶりの大舞台の地であった。 あの有名な「御柱祭」が、既にこの春季に行われたが。

諏訪大社・上社本宮のすぐ横の路上にて、丁度、御柱を曳行する秋の祭りに遭遇した、聞けば、「里宮・小宮」の秋例祭で今年は本宮の御柱祭なので、それに倣って挙行しているとのこと。 全国各地の諏訪系神社では同様に御柱にちなんだお祭りが行はれるらしい、それも秋祭りが多い。

諏訪大社は、諏訪湖の南北に上下・二社ずつ対座し、四ケ所に鎮座する神々である。 諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。

全国に分布する分社は一万有余社を数えると言われ、我が家の近くや実家にも「お諏訪さん」「諏訪様」の通称で庶民の間に鎮座している。

神様は出雲系(大国主)の神であることに先ずびっくりであったが、全国的にも親しまれ敬まわれ巾広い信仰を有していて、歴史的にも当然のように古い。

祭神は建御名方命、八坂刀売命の夫妻神が奉られている。

建御名方命(タケミナカタ)は、大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供で、諏訪の国の国造りの神である。 建御名方命は地元の諏訪の美しい神、八坂刀売命(ヤサカトメ)を娶ることになる。その後、両人は諏訪大明神となり、これが現在の諏訪大社のはじまりという。



上社は建御名方命、下社は八坂刀売をそれぞれ祀り、名前の「ミナカタ」は「水潟」の意で、元々は大国主や出雲とは関係のない諏訪湖の水の神であるとされる。

八坂刀売は下社の背後に聳える白樺高原や霧が峰の山の守護の神とされる。

記紀神話(古事記、日本書紀)に基づくと、大国主命の「国譲り」、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫った。 これに対して建御名方命は国譲りに反対し、大和王朝の代表である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦った。結果、戦に負けたことから諏訪まで逃れてきて、その地で王国を築いたということになっている。

「国譲り」では、大国主の出雲での末子の建御名方はどうしても承知せず、力比べを挑んだが、逆に投げ飛ばされて出雲から逃亡し、武甕槌が追って科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ)にいたるまで追い詰め、建御名方は遂に降参し、今後、この地からはどこへも出ないことを約束して命だけは助けられた。つまり、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。

八百万の神が出雲へもう出るため、この月を「神無月」と言われるが、諏訪の建御名方の神は出席を許されず、この地方だけは「神有月」と言われる。



「御柱祭」については次回へ・・、





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2009年10月22日木曜日

日本周遊紀行(3)甲府 「甲斐・甲府」

日本周遊紀行(3)甲府 「甲斐・甲府」

甲斐の国の府は「甲府」・・、

国道20号は勝沼を過ぎると「甲府」である。 
今年(2007年)、NHK大河で「風林火山」を放送していますね、皆さん見てますか。「甲府」という名称は、永正16年(1519年)に武田信虎(信玄の父)が居館を躑躅ヶ崎館(つつじがさき:現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から「甲府」と命名したことに始まります。
武田信玄の信玄とは法名で、本名は「晴信」である。甲斐守護を代々務めた甲斐源氏武田氏の信虎の嫡男として生まれ、隣国の信濃を平定し、越後の上杉謙信との「川中島の戦い」は余りに有名である。
現在このあたりが放送の真っ最中ですが、戦いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、駿河、上野(こうずけ)、遠江(とうとうみ)、三河と美濃の一部を領するようになるが、上洛の途中に信玄は三河で病没することになります。 信玄は「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬軍は戦国最強と評され、今もなお広く人気を集めている戦国武将である。 信玄死後、側室の子である四郎勝頼が家督を継ぐようになるが、勝頼の母は、あの諏訪の姫「由布姫」である。
勝頼の時代、台頭してきた織田信長、徳川家康の連合軍に鉄砲を主力とした集団新鋭兵器の登場、所謂「長篠の戦い」で破れる。 その後の武田家は次第に衰退してゆき、天正10年(1582年)、信長の追手に追われた勝頼は笹子峠付近で進路をふさがれ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である大和村・天目山を目指した。 しかしその途上、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき追手に捕捉され、身内とともに自害して果てたという。(天目山の戦い) 享年37。
これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡することになる。 その後、家康が入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、田野寺(現、甲州市大和村・景徳院)を建立している。現在、境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる「甲将殿」がある。
甲斐・武田氏は、清和源氏の本流と言われ、元は「常陸の国」の出身である。NHKのドラマは山本勘助が主人公であるが、今後の武田四郎勝頼との関わりも楽しみである。

次回は、「諏訪」

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2009年10月21日水曜日

日本周遊紀行(2)山梨 「甲州街道」

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日本周遊紀行(2)山梨 「甲州街道」


「甲州街道」について・・、

私の旅・「日本一周」の出発路は国道412号から、相模湖駅前で20号線になる、往時の「甲州街道」と呼ばれる筋道であった。
甲州街道は、甲斐国(山梨県)へつながる道で、江戸幕府によって整備された五街道の1つである。「甲州街道」と言っても今、は国道20号のことを指しているが、江戸期における同街道は「旧甲州街道」とも称している。旧街道は、内藤新宿(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈で当時内藤家の中屋敷のあったところ)、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれていた。
ところで、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。
立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し江戸城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。

参勤交代であるが・・、 
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。 では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった・・。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。 武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。江戸幕府で事変があった時、将軍は、半蔵の部下達に守られながら、甲州街道を進み、そして、百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 つまり、甲州街道は、徳川将軍家の逃げ道であり、軍事用の目的があったのである。 天領の甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていた。
ただ、甲州街道の大行列に「お茶壷道中」というのがあったという。
幕府に献上される「京・宇治の茶」で、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入った。この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 
庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある。 このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間続いたという。

笹子峠から勝沼にかけて・・、
江戸末期、慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦で官軍に敗れ、再起を図る近藤勇が新選組を母体として結成した「甲陽鎮撫隊」が甲府城奪取に向かったのもこの街道であるが、笹子峠を越え甲府の手前の勝沼で新政府軍に敗れ、虚しく江戸に帰還している。
同じ場所でもう一つの悲劇があった、それは江戸期の直前であったが・・、450年の歴史を誇る名門・武田氏の滅亡の地でもあった。
天正9年(1581年)、武田勝頼は織田信長、徳川家康の連合軍によって築城中の「新府城」(韮崎中田、七里岩台地上に位置する平山城)は陥とされ、武田氏ゆかりの地である天目山を目指して逃げたが、しかしその途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害して果てる(天目山の戦い)、こうして甲斐武田氏は事実上滅亡した。

街道沿いに、ぶどう寺とも呼ばれる古刹「大善寺」がある。
718年奈良時代に僧・行基の創建とあり、遠く中国から運ばれてきた葡萄の種を薬草として植えた事が始まりでこの地に伝わり、勝沼甲州葡萄の発祥の寺とされる。 武田家が追い込まれた天正10年3月、大月の岩殿城を目指した勝頼一行がこの寺に泊まり、武田家再興を祈願して薬師堂に一晩こもったとされる。この時の記録を住職の理慶尼(武田家の親族)が細かく書きとめ、寺の古文書「武田勝頼滅亡記」として一冊ずつ保存されているという。
大和村(現、甲州市)田野に勝頼一族の菩提寺「景徳院」がある。
又、大和村から勝沼町(現、甲州市)に入ってすぐの深沢橋の袂に「近藤勇」の像がある。

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2009年10月20日火曜日

日本周遊紀行(1)  「出発」

【中部道】 神奈川(厚木)⇒⇒⇒⇒新潟(糸魚川)

『出発・・、』

本日は平成16年(2004年)9月20日、秋の彼岸の入り、そして何より「敬老の日」である。日本の人口の凡そ1/5が65歳以上の高齢者が占めるといわれが、小生も本年65歳を迎えこの割合の中の一人になった。  つまり年金生活を送るようになってしまったのである・・、だからどうなんだ・・「別に・・」、歳月の経過とともにたまたま65才に成ったにすぎない、ただそれだけである。 そして今年の今日(きょう)、「日本一周の旅」に出掛けるタイミングになっただけである。
 勿論、これまでに思案し、計画し、準備し、そして万端、整えたつもりである、愛車の整備も含めて。
本日は旗日である、その為か世間は何となく普段より静かな雰囲気である。上(カミ・妻)さんも休日休勤の”のんびり曜日”であるが、小生の出発とゆうことで早朝より起きて準備を整えてくれた。
そして発車の際は車の横で道中の無事を祈ってくれた。
上さんに暫しの別れを告げて先ずは、第二の我が家である長野・白馬村の別宅へ向けて車を走らせる。 いつものルートである国道412号を経由する。
愛川町に入り「中津川」の清流を右に見ながら、半原へ・・、そして半原の尽きる所に宮が瀬ダムの巨大なダム堰堤が遠望できる。(宮が瀬ダムについては「厚木」の項で詳細を記載)

愛甲郡愛川町半原は日本を代表とする「撚糸」の町として名を高めたことは余り知られていないようだ。 撚糸とは、糸に撚(ヨリ)をかけることで、糸は勿論絹糸のことである。
山間の地、半原は中津川などにより大気中に適度の湿気があり、そのため養蚕産業や糸を扱うのに良い条件となっていた為といわれる。 それに明治の頃はまだ電気がなかったため、この繁盛ぶりを支えたのが中津川であり、動力にその水を活用して「水車」を動かしたのであった。其の優れた製品は主に江戸、桐生(埼玉県)、足利、それに郡内に接した八王子に商いに行ったとされる。

津久井の町に入る・・、
神奈川県の北西部に位置する津久井郡は自然に恵まれ、郡土の70~80%は森林におおわれている。 津久井は大自然豊かな町であり、歴史と民話の里でもある。そして、近年ではダムの町としても知られる。
津久井は県下の水源の町で、宮が瀬ダムより遥か以前に町内には五つの湖(相模ダム、沼本ダム、道志ダム、城山ダム、本沢ダムなど昭和20年から40年にかけて完成している)が在り、神奈川県の発展に貢献し、現在でも大都市への水と電力の供給源として大切な役割を果たしている。いずれも、長い年月をかけて湖底に沈む集落の方々との土地交渉・移転先等々の話し合いが行われた末に完成している。
因みに宮が瀬ダムは平成12年(2000年)に竣工している。

R412・・、相模湖の手前に「ピクニックランド」の広大な遊園地がある。子供達がまだ幼少の頃、数度遊びに連れて行ったもんであるが・・、このピクニックランドにも意外なエピソードがあった。
遊園地の南端に「正覚寺」という名古刹がある。 鎌倉初期、源頼朝が西行法師を鎌倉に招聘した折、この名僧も正覚寺を訪れている。
この時西行は・・、

  『吾妻路や 間の中山は ほどせばみ
             心の奥の 見ゆばこそあらめ

と詠み、寺院境内の片隅に歌碑が残っている。
又、近年では民俗学者・柳田国男が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて10日間滞在し、帰りに遺して行った当時の有名な一句

山寺や 葱と南瓜の 十日間
を残している。 
この事が縁で最近では正覚寺は俳句の寺としても名を成している。
西行が詠んだ「・・間の中山・・」とは嵐山の意味で、裏山に控える優美な山を、京の嵐山になぞらえて詠んだといわれている。
そして近年の昭和30年代には大活躍したプロレスラー「力道山」が正覚寺を訪れているという。
丁度、TVの普及期、力道山はカラテチョップを使って大型外国人をやっつけたことでもしられるが・・。そのかたわら力道山はリキ観光株式会社という事業家としても大いに手を広げ、昭和37年には相模湖町で土地の開発事業を計画し、このため正覚寺も裏の山林5ヘクタールを譲渡協力したという。それが現在の相模湖ピクニックランドの前進であった。
その直後に力道山は突然の事故で帰らぬ人となりましたが、開発事業は三井物産に引き継がれ、「相模湖ピクニックランド」として現在に至っているのであった。

中央道の相模湖から大月へ、そのあとは一般道の国道20号、所謂、甲州街道を北上する。街道の大月には名勝・「猿橋」がある。
長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚が立てられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えている。 市内にある桂川(相模川の山梨側の名称)の峡谷に架かる橋で、日本三奇橋の一つとしても知られ、往時は甲州街道に架かる重要な橋であった。
猿橋については、7世紀に「猿が互いに体を支えあって橋を作った」のを見て造られたと言う伝説があり、名称もここからきている。 鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。 
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため、往来が多く、歌川広重が描き、荻生徂徠など多くの人が訪れた感想や詩・句を記録している。
笹子トンネルを抜けると、既にここは甲斐の国・大和村そして勝沼である。

次回は、「甲州街道」


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2009年10月19日月曜日

日本周遊紀行 「旅の準備」

日本周遊紀行 「旅の準備」

「日本一周の旅」への根拠は・・?
思えば・・、今までの旅や旅行は殆どが短期間でスポット的な小規模の「お出掛け」であり、確か、定年前の休暇で、お上(妻)さんと北海道の10日間というのが最長であった。 定年になって暇とお金(・・?、・・××)と体力は充分備わっているので、単独で長旅を考えた場合、果たして何処へ・・?と、とりあえず考えてしまう。 何処かの海外旅行・・? 何れかの観光旅行・・? ハタマタ道府県巡り・・などと多々目的はあろうが、ただ肝心なのは漠然とではなく、目的、目標をしっかり絞って決行する事である。
ところで、小生は日本(実は満州・・?)に生まれた日本人である(当たり前であるが・・)。従って日本の事をもっと知るべきである、という好奇心が頭をもたげるのである。 日本列島は細長い島国であり、海を眺めながら「海道を巡る!!」、道行きに地域の歴史や文化、自然を訪ねる・・、コレはいいと思った次第である。 言い換えれば「外国の事に関して」日本国内を在る程度知っておいて、其の後に行なうのが筋と考えている。 愛読書である司馬遼太郎の「街道を往く」シリーズを模じった訳ではないが、「海道を往く」である。 

実は何年か前、職場の仲間に定年で暇(ひま)に成ったら日本一周でもしようかな・・などと、ペロッと口に出したことも有り、又、若い頃よりボンヤリと夢に描いていた事も確かであった。 そして、何時の日にか実行することを心に決めていたのも事実であった。 
定年間際、その直後に先ず何を成すべきか・・??を考えながら、その夢が大きく膨らんで、そして、いよいよ現実のハコビと相成ったのである。  さて、現実のものとして実行のハコビ’まではよかったが、本当の意味であらゆる事を想定し具体的な運びをどうするか、を思案しなければならない。
若い時分なら、無計画で明日にでも飛び出して行けばいいものをと思うが、事実、情報等によるとヤングマン達は自転車や徒歩で日本一周、日本各地を何日も、何十日も巡り、苦労や危険を覚悟しながら体験している人達も中にはいられるようである。 しかし、熟年の小生はこれは無理、年甲斐も無く、ではなく年甲斐を考えて趣旨・目的・目標を明確にし、尚且つ短期間で効率よく実行しなければならないのである。

これらを条件を加味して、以下の実行項目を考察してみた。
1 日本列島を2分割し、2回に分けて実行
2 分割は静岡ー糸魚川構造線(フォッサマグナ)を基準に東日本と西日本
3 現在、住居は神奈川で、別宅が構造線上の白馬村に在る
4 先ずは、「東日本」の海道沿いを巡る
5 新潟・糸魚川を基点に日本海側を北上する
6 東北、本州北端より北海道へ、そして、その最北部の稚内へ
7 次にオホーツク海、太平洋を南下する
8 千葉房総より自宅へ帰還
9 手段はつまり脚(車)はワンボックスのマイカー
10 ネグラは車内か現地の安宿(前日又は当日予約)のカタツムリ・ヤドカリ旅行
11 安宿とはY・H、民宿、公営の宿、他
12 途上、出来得る限り「道の駅」を利用する
13 一日の走行目標は200~300Kmで、陽の有る内
14 趣旨として最寄りの観光地、景勝地、名所旧跡等を巡る
15 地域の歴史や文化に興味を持つ
16 その町の個性、特徴、特色、主旨、趣向を知る
17 名の有る「温泉地」、地域や隠れた温泉地を訪ねる
(NHK・「ふだん着温泉」等)
18 データシートを作成し、その日の内にデータ、日誌等を記録する
19 持ち物・・装備品、持参品を事前にチェックし準備する
20 衣類、特に下着類は出来るたけ現地で洗濯処置
21 食、嗜好品、好みに応じて持参調理する、その他現地にて摂食
22 車への積載は能率、効率よく美的に、ケースの使用が良い
23 要所、要点は事前チェックし地図上に書き込む(地図は最新版)
24 カーナビは絶対必要、そしてフル活用(ナビソフトは最新版)
25 季節の良い時期を選ぶ(春期・5,6月頃 、秋期・9,10月頃)
26 春季、先ず東日本方面へ・・、日本海側、北海道、太平洋岸へ、
27 次年、「西日本」へ・・、先ず三浦、伊豆から東海道、近畿
28 そして四国、山陽道から九州北部、西九州、鹿児島へ
29 次に、東九州から北上して山陰、近畿(日本海)を巡り
30 北陸、能登に至って糸魚川から姫川、別宅白馬へ
・・と、ツラツラと並べて、自分なりに納得しながら着実に準備を進めた。 
但し、沖縄県については余りに諸島、群島が多いため熟慮した結果、後日の訪問となってしまった。 因みに、その後家族と沖縄旅行へ行くきっかけがあったので、其の沖縄の概要や模様は近日述べたいとと思っている。 尚、沖縄県は本島ほか49の有人島と多数の無人島からなるらしい。

さて、いよいよ出発である・・!!


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2009年10月18日日曜日

日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」

日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」

前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った御三方:「吉田松陰、松尾芭蕉、正岡子規」の旅の様子を記したい。
先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。
芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。 この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。

次に「正岡子規」のこと・・、
さて松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、   
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』 子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。
四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。
他にも俳諧旅行で「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。 巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京
この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は、有名な芭蕉の『 五月雨を 集めて早し 最上川 』にあるともいわれる。
元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。 子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り:ひねり」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』 余りにも有名な句である。
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。 子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。 子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く吟人」と呼んだ。

ところで、昔日は(江戸期の頃まで・・)、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代でもある、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。
そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。 特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無いようである。
現代の文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。
その事を示す例として、近年では人々の足代わりに鉄道敷設が行われた。 その鉄道の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝の観光目的のために造られた事が挙げられるのである。

小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」(事前の下調べ)、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながら(事後の再確認)、アレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」程の大袈裟なものではないが、確かめて再び知識を得るのも楽しみである。 実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが。
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである。

日本周遊紀行・「まえがき」 【終】

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日本周遊紀行 「旅」について・・、

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日本周遊紀行 「旅」について

『旅・旅・旅』・旅について・・、
「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。 更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。  何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われている。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。

さて、「熟年」になった今日・・、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう。 少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。
例えば「旅」のことである。 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。 「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   
「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。
近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。 通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 

『人が旅をするのは到着するためではなく、
             旅をする為である。』 (ゲーテ)
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)

「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。 日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ「一人旅」はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・? よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。 だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、

次回は、「三人の昔の旅人」


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01. 15.

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