google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2009-10-11

2009年10月14日水曜日

勝海舟と西郷隆盛


勝海舟と西郷隆盛の像


勝海舟と西郷隆盛

「桜田門外の変」とは・・、幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた事件である。 
あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。 「江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。 官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。

幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。 
後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。 この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。

江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に「勝」と「西郷隆盛」の会談が行われた。 この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。 相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。

勝は、『戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。』と言えば・・、 『一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。』西郷が答える。
こうして、「江戸城無血開城」が決まった・・、慶応4年(1868年)のことであった。
勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。

『 おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。 その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 
さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」・・この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。
このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・ 』


その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である。
歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。 現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。

明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。その後、明治4年~6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等が採用され、維新としての近代日本の礎を作った。

西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。

一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。 
隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。 勝の、西郷への思い感じさせるのである。


日本周遊紀行(2)山梨 「甲州街道」

甲州街道」について・・、
私の旅・「日本一周」の出発路は国道412号から、相模湖駅前で20号線になる、往時の「甲州街道」と呼ばれる筋道であった。
甲州街道は、甲斐国(山梨県)へつながる道で、江戸幕府によって整備された五街道の1つである。「甲州街道」と言っても今、は国道20号のことを指しているが、江戸期における同街道は「旧甲州街道」とも称している。旧街道は、内藤新宿(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈で当時内藤家の中屋敷のあったところ)、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれていた。
ところで、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。
立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し江戸城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。



参勤交代であるが・・、 
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。 では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった・・。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。 武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。江戸幕府で事変があった時、将軍は、半蔵の部下達に守られながら、甲州街道を進み、そして、百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 つまり、甲州街道は、徳川将軍家の逃げ道であり、軍事用の目的があったのである。 天領の甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていた。
ただ、甲州街道の大行列に「お茶壷道中」というのがあったという。
幕府に献上される「京・宇治の茶」で、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入った。この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 
庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある。 このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間続いたという。

笹子峠から勝沼にかけて・・、
江戸末期、慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦で官軍に敗れ、再起を図る近藤勇が新選組を母体として結成した「甲陽鎮撫隊」が甲府城奪取に向かったのもこの街道であるが、笹子峠を越え甲府の手前の勝沼で新政府軍に敗れ、虚しく江戸に帰還している。
同じ場所でもう一つの悲劇があった、それは江戸期の直前であったが・・、450年の歴史を誇る名門・武田氏の滅亡の地でもあった。
天正9年(1581年)、武田勝頼は織田信長、徳川家康の連合軍によって築城中の「新府城」(韮崎中田、七里岩台地上に位置する平山城)は陥とされ、武田氏ゆかりの地である天目山を目指して逃げたが、しかしその途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害して果てる(天目山の戦い)、こうして甲斐武田氏は事実上滅亡した。

街道沿いに、ぶどう寺とも呼ばれる古刹「大善寺」がある。
718年奈良時代に僧・行基の創建とあり、遠く中国から運ばれてきた葡萄の種を薬草として植えた事が始まりでこの地に伝わり、勝沼甲州葡萄の発祥の寺とされる。 武田家が追い込まれた天正10年3月、大月の岩殿城を目指した勝頼一行がこの寺に泊まり、武田家再興を祈願して薬師堂に一晩こもったとされる。この時の記録を住職の理慶尼(武田家の親族)が細かく書きとめ、寺の古文書「武田勝頼滅亡記」として一冊ずつ保存されているという。
大和村(現、甲州市)田野に勝頼一族の菩提寺「景徳院」がある。
又、大和村から勝沼町(現、甲州市)に入ってすぐの深沢橋の袂に「近藤勇」の像がある。

次回、山梨 「甲府」



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日本周遊紀行・東日本編 「出発」 

【中部道】 神奈川(厚木)⇒⇒⇒⇒新潟(糸魚川)


出発
本日は平成16年(2004年)9月20日、秋の彼岸の入り、そして何より「敬老の日」である。日本の人口の凡そ1/5が65歳以上の高齢者が占めるといわれが、小生も本年65歳を迎えこの割合の中の一人になった。  つまり年金生活を送るようになってしまったのである・・、だからどうなんだ・・「別に・・」、歳月の経過とともにたまたま65才に成ったにすぎない、ただそれだけである。 そして今年の今日(きょう)、「日本一周の旅」に出掛けるタイミングになっただけである。
 勿論、これまでに思案し、計画し、準備し、そして万端、整えたつもりである、愛車の整備も含めて。
本日は旗日である、その為か世間は何となく普段より静かな雰囲気である。上(カミ・妻)さんも休日休勤の”のんびり曜日”であるが、小生の出発とゆうことで早朝より起きて準備を整えてくれた。
そして発車の際は車の横で道中の無事を祈ってくれた。
上さんに暫しの別れを告げて先ずは、第二の我が家である長野・白馬村の別宅へ向けて車を走らせる。 いつものルートである国道412号を経由する。
愛川町に入り「中津川」の清流を右に見ながら、半原へ・・、そして半原の尽きる所に宮が瀬ダムの巨大なダム堰堤が遠望できる。(宮が瀬ダムについては「厚木」の項で詳細を記載)

愛甲郡愛川町半原は日本を代表とする「撚糸」の町として名を高めたことは余り知られていないようだ。 撚糸とは、糸に撚(ヨリ)をかけることで、糸は勿論絹糸のことである。
山間の地、半原は中津川などにより大気中に適度の湿気があり、そのため養蚕産業や糸を扱うのに良い条件となっていた為といわれる。 それに明治の頃はまだ電気がなかったため、この繁盛ぶりを支えたのが中津川であり、動力にその水を活用して「水車」を動かしたのであった。其の優れた製品は主に江戸、桐生(埼玉県)、足利、それに郡内に接した八王子に商いに行ったとされる。

津久井の町に入る・・、
神奈川県の北西部に位置する津久井郡は自然に恵まれ、郡土の70~80%は森林におおわれている。 津久井は大自然豊かな町であり、歴史と民話の里でもある。そして、近年ではダムの町としても知られる。
津久井は県下の水源の町で、宮が瀬ダムより遥か以前に町内には五つの湖(相模ダム、沼本ダム、道志ダム、城山ダム、本沢ダムなど昭和20年から40年にかけて完成している)が在り、神奈川県の発展に貢献し、現在でも大都市への水と電力の供給源として大切な役割を果たしている。いずれも、長い年月をかけて湖底に沈む集落の方々との土地交渉・移転先等々の話し合いが行われた末に完成している。
因みに宮が瀬ダムは平成12年(2000年)に竣工している。

R412・・、相模湖の手前に「ピクニックランド」の広大な遊園地がある。子供達がまだ幼少の頃、数度遊びに連れて行ったもんであるが・・、このピクニックランドにも意外なエピソードがあった。
遊園地の南端に「正覚寺」という名古刹がある。 鎌倉初期、源頼朝が西行法師を鎌倉に招聘した折、この名僧も正覚寺を訪れている。
この時西行は・・、

  『吾妻路や 間の中山は ほどせばみ
             心の奥の 見ゆばこそあらめ

と詠み、寺院境内の片隅に歌碑が残っている。
又、近年では民俗学者・柳田国男が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて10日間滞在し、帰りに遺して行った当時の有名な一句

山寺や 葱と南瓜の 十日間
を残している。 
この事が縁で最近では正覚寺は俳句の寺としても名を成している。
西行が詠んだ「・・間の中山・・」とは嵐山の意味で、裏山に控える優美な山を、京の嵐山になぞらえて詠んだといわれている。
そして近年の昭和30年代には大活躍したプロレスラー「力道山」が正覚寺を訪れているという。
丁度、TVの普及期、力道山はカラテチョップを使って大型外国人をやっつけたことでもしられるが・・。そのかたわら力道山はリキ観光株式会社という事業家としても大いに手を広げ、昭和37年には相模湖町で土地の開発事業を計画し、このため正覚寺も裏の山林5ヘクタールを譲渡協力したという。それが現在の相模湖ピクニックランドの前進であった。
その直後に力道山は突然の事故で帰らぬ人となりましたが、開発事業は三井物産に引き継がれ、「相模湖ピクニックランド」として現在に至っているのであった。

中央道の相模湖から大月へ、そのあとは一般道の国道20号、所謂、甲州街道を北上する。街道の大月には名勝・「猿橋」がある。
長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚が立てられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えている。 市内にある桂川(相模川の山梨側の名称)の峡谷に架かる橋で、日本三奇橋の一つとしても知られ、往時は甲州街道に架かる重要な橋であった。
猿橋については、7世紀に「猿が互いに体を支えあって橋を作った」のを見て造られたと言う伝説があり、名称もここからきている。 鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。 
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため、往来が多く、歌川広重が描き、荻生徂徠など多くの人が訪れた感想や詩・句を記録している。
笹子トンネルを抜けると、既にここは甲斐の国・大和村そして勝沼である。

次回、甲州街道
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日本周遊紀行 「東日本編」

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「 国に山河在り、人に歴史有り 」

主に沿岸地方のみであったが、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来ました。
そして概ね、「日本という国の形」である歴史や文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第です。これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足している。 そして、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景等の観光面をピックアップして当サイトに紹介致します。
周遊は、神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。
『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着

次回から、いよいよ旅程に入ります。

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2009年10月13日火曜日

日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」

日本周遊紀行 「序文・昔の旅人たち」
前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った御三方:「吉田松陰、松尾芭蕉、正岡子規」の旅の様子を記したい。

先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。
芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。 この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。

次に「正岡子規」のこと・・、
さて松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、   
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』 子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。
四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。
他にも俳諧旅行で「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。 巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京
この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は、有名な芭蕉の『 五月雨を 集めて早し 最上川 』にあるともいわれる。
元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。 子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り:ひねり」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』 余りにも有名な句である。
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。 子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。 子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く吟人」と呼んだ。

ところで、昔日は(江戸期の頃まで・・)、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代でもある、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。
そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。 特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無いようである。
現代の文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。
その事を示す例として、近年では人々の足代わりに鉄道敷設が行われた。 その鉄道の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝の観光目的のために造られた事が挙げられるのである。

小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」(事前の下調べ)、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながら(事後の再確認)、アレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」程の大袈裟なものではないが、確かめて再び知識を得るのも楽しみである。 実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが。
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである。

日本周遊紀行・「まえがき」 【終】

次回は、「旅の準備」


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【旅】について・・、(Ⅲ)

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更に「旅」について・・、

人が旅をするのは到着するためではなく、
             旅をする為である
。』 (ゲーテ)
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)

「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 それは積極的、能動的であれ、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。 日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ「一人旅」はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・? よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。 だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わり・・とか、何れも一端は示しているようであるが・・、

次回は、「三人の昔の旅人」 

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【旅】について・・、(Ⅱ)

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【旅】について・・、(2)

「熟年」になった今日・・、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。
少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。

例えば「旅」のことである・・。 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   

「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 
尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 

更に、【旅】について・・、(3)へ・・、


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「旅」のはじめに・・、

「旅」のエッセンス 「旅」のはじめに・・、

「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。
更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。
弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。
なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。

「旅」については・・、この後に続きます。


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