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2009年11月9日月曜日

日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」

日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と西郷どん」



庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという、それは何故か・・?、<br>


幕末において酒井・庄内藩は徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。

庄内藩士は江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中、庄内藩がもし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが、藩内は一致団結し藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 

又、裏交渉にての平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である、と納得したという。

そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 

薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 

西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」である。平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 



『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。』



『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。』

「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。

尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという。 それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 この本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 

西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか、とも言われているが・・?。



鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると。 西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 

一方、山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。

現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。




次回は、鶴岡「出羽三山」
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