2009年10月25日日曜日

日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」


信州・「松本城」 

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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」

西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。

ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。

次回は、安曇野から白馬

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